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徳川家定とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や篤姫との関係も紹介】

「徳川家定ってどんな人?」
「篤姫の夫というイメージが強いけど、何をした人なの?」

徳川家定は江戸時代の13代目征夷大将軍です。どちらかというと天璋院篤姫の夫だった事で知名度が高いのかもしれない人物でもあります。一般的に「暗君」のイメージが強く、色々と将軍らしからぬ行動の数々が残されていますが、時代の変わる時期でもあり、その為に体調を崩していった将軍でもありました。

13代将軍徳川家定

将軍職に就いていた時期は5年間の徳川家定という人物。この記事では「暗君」と呼ばれた徳川家定がどのような人物であったのか?残された逸話は証言まで踏まえて、家定の生涯を解説します。

徳川家定とはどんな人物か

名前徳川家定
別名イモ公方
誕生日1824年5月6日
没日1858年8月14日
生地武蔵野国・江戸
没地武蔵野国・江戸
配偶者孝司任子・一条秀子
・近衛敬子(天璋院篤姫)
埋葬場所東京の寛永寺

徳川家定の生涯をハイライト

黒船が来航した時に将軍職に就いていた人物だった
  • 1824年:12代将軍徳川家慶の4男として江戸城で生まれる
  • 1841年:大御所徳川家斉が薨去し、世嗣となる
  • 1853年:黒船来航の年に、父家慶が薨去する
  • 1856年:近衛敬子(天璋院篤姫)が輿入れをする
  • 1857年:米国総領事ハリスに謁見している
  • 1858年:諸大名の前で将軍後嗣の選定と一橋派の大名を処分する
  • 同年:江戸城にて薨去。享年35歳

正室に篤姫を迎えた経緯

御台所・天璋院篤姫

徳川家定は生涯に3人正室を迎えました。その中の一人が薩摩藩主・島津斉彬の養女である「天璋院篤姫」です。家定は1828年に孝司任子を正室に迎えますが、疱瘡により1428年に死去。次に翌年、一条秀子を正室に迎えますが、元来病弱だった秀子も輿入れの僅か半年後に薨去してしまいます。

その為3番目の正室として島津斉彬が、名門近衛家の養女として、天璋院篤姫が輿入れをしたのです。島津家から正室を取った理由は、家定や大奥が長命で子沢山だった祖父の徳川家斉にあやかってのものだったといいます。

薩摩藩主・島津斉彬

島津斉彬公が自らが推す一橋慶喜を将軍にするために、策略の一環として篤姫の輿入れを政略ではないかという説がありましたが、島津家からの正室の申し入れは家定が将軍職の前に行われていた為に、現在は輿入れ問題と後嗣問題は無関係と考えられています。

篤姫との仲は?子供はいた?

晩年の篤姫、気の強さが雰囲気からにじみ出ている

大河ドラマでも有名になった女傑「篤姫」と家定が、仲が良かったのか?気になるところですが、残念なことに家定と篤姫の仲を窺わせるエピソードはほとんど残っていません。そして、二人の間に子供も恵まれませんでした。まず篤姫が家定に輿入れをしたとき、家定が33歳の時でした。家定が薨去したのが35歳なので、夫婦生活は僅か2年足らずだったのです。

そし生まれながらに病弱だった家定は、激務で病気が悪化しており篤姫への御渡りはほとんど無かったのではないかと推察されています。家定は病弱なことも関係しているのか、女性に積極的ではなく大奥に泊まるのは月に数度だったといわれています。しかし篤姫が持ってきた黒砂糖を使ってカステラを作り、篤姫にも振舞ったというエピソードも残っています。

後年篤姫は、和宮と共に徳川家相続に尽力した

料理が趣味の体の弱い夫に篤姫がどの様に感じていたのかは想像になりますが、決して悪い印象もなかったのではないでしょうか。篤姫は後に、大政奉還の時には、14代将軍家茂の正妻・和宮と共に徳川家の存続と江戸を守るために力を尽くしています。

明治時代になっても、「自分は徳川家の人間」と島津家の支援を決して受けなかったと伝わっています。仲は今となってはわかりませんが、篤姫が徳川の人間として輿入れしてからの生涯を貫いた女性でした。

死因は毒殺説も囁かれた

急な薨去に毒殺説も囁かれた

家定の死因ははっきりとはわかっていませんが、一橋派の大名を処分した翌日に薨去しました。そのあまりの急死に、一橋派の毒殺説が囁かれています。しかし家定は猜疑心が強く、非常に毒殺を恐れ、祖父のところで出た食事に箸に手を付けないほどだったといいます。そんな人物が毒殺されるかという意見もあり、真相は藪の中です。

そのために死因は「脚気狭心」や「コレラ」が原因だったのではないかと推察されています。今でこそ脚気は「ビタミン欠乏」が原因とわかっている病ですが、当時は原因不明であり、白米が流行していた江戸で流行していたため「江戸病」と呼ばれた病気でした。

水で感染するコレラは衛生状態が悪い江戸時代、感染が拡大しやすかった

また当時コレラも流行しており、同じく原因不明ですが発病して3日程で亡くなるために、「3日コロリ」と恐れられた病でした。残った記録から、脚気やコレラが急死の病として一番自然と考えられています。

将軍には向かないといわれた心身

料理が趣味という変わった将軍だった

家定の性格は、「神経質で繊細」であったようです。また、カステラや饅頭などお菓子作りが趣味だったといわれています。煮豆やふかし芋を作って、自分だけでなく家臣にも振舞ったそうです。そのために「イモ公方」と陰口を言われていました。

身体も幼少の頃から病弱で、幼少に疱瘡など大病にもかかり、目の周りに痣が残っていたといいます。

そのため人前に出ることを極端に嫌い、乳母にしか心を開かなかったといいます。しばしば癇癪を起こし、周囲を困らせたりしていたようです。

松平春嶽、幕末の四賢候の1人に数えられている

そのため当時の評価は散々で、「安政紀事」には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」と書かれ、松平春嶽は「凡庸の中でも最も下等」と評しています。

しかし幕臣の朝比奈昌広は、「汎用だ暗愚だと言われるが、それは越前(松平春嶽)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名は多くいたはずである」と弁護しています。そうではあるものの、やはり名君という評価では決してなかったことがわかります。

徳川家定の功績

功績1「次代の徳川将軍を指名したこと」

家定は諸大名を呼び後嗣を指名した

家定は1858年、自分の死の1週間ほど前に諸大名を招集して、徳川家茂を将軍後嗣の意向を伝えています。これは人前に出ることを嫌い、ほとんど将軍らしいことをしなかった家定にとって「初めて将軍らしいことをした」と評されました。

当時徳川慶喜を推す一橋派と、家茂を推す南紀派とで後継ぎ争いをしていました。この頃には病が悪化し、廃人に近い状態となり政務が行えない状況となっていました。しかし一説によれば、一橋派を嫌っていたために家茂を指名したそうです。大老井伊直弼が主導をしていたとはいえ、自分の意志を打ち出したことは家定にとって大きなことだったと推察できます。

功績2「慶喜推進派を処罰したこと」

大老井伊直弼は「安政の大獄」で多くの大名や公家を処罰している

1858年家定は、死の前日に「慶喜を推進する一橋派」の処罰を下しています。主導は井伊直弼であったものの、家定が台命(将軍の命令)を発して行っています。内容は徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)でした。

安政の大獄へと繋がる重大な決断を家定は下したことになる

しかし翌日に、将軍家定は突然薨去します。あまりにも突然かつ処罰後すぐの死だったために「毒殺説」が噂されるほどでした。毒殺だったのか、ストレスによる病気の悪化なのかは今となってはわかりませんが、このことが後に多くの尊王攘夷派や一橋派を処罰する、「安政の大獄」と呼ばれる出来事へと発展していったのです。そのスタートは家定の台命だったのも、以前の家定からは想像出来ない行動だったといわれています。

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