徳川家定の残した言葉
「遥か遠方より使節をもって書簡の届け来ること、ならびにその厚情、深く感じ入り満足至極である。両国の親しき交わりは幾久しく続くであろう合衆国プレジデントにしかと伝えるべし」
アメリカ外交官ハリスが謁見したときの言葉です。相手の事をねぎらいの言葉をかけ、暗愚という評判は窺えない至って常識的な返答をしています。
「一橋は好かぬ。紀伊が良い」
端的に家定がどう思っていたのかが、この一言に集約されているような気がします。結局将軍の後嗣も好き嫌いの問題だったようです。しかし家定がまだ存命で子供が生まれるかもしれないのに、後継者問題を騒ぎ立てる一橋派を嫌うのは至極もっともなので、そういった面も踏まえて歴史を見ると面白く感じます。
「 諸大名などと申し合わせ、表向きに意見書などを提出するとは怪しからんことだ。島津斉彬までもが申し出すとは、新御殿(篤姫)もいるのに、予を侮辱しているのと同じである。どうしてくれようか。」
徳川慶喜を養君にという諸大名に対する意見書に対する感想です。その中に島津斉彬の名前もあり、篤姫が輿入れしたばかりなのに非常識だと怒っています。これに関しては家定の方が筋が通っているように感じられ、世間のいう通りの「愚鈍」では無かったことが窺える言葉です。
徳川家定の人物相関図
徳川家定にまつわる逸話
逸話1「脳性まひだった可能性があるらしい」
徳川家定は脳性まひだった可能性があるといわれています。癇癪もちだったいう性格が伝わっていますが、これはアテトーゼ型の典型的な症状だそうです。また謁見したハリスの日記によると、言葉を発する前に頭を後方に反らし、足を踏み鳴らすという行動をとったそうです。これは脳性まひの典型的な症状といわれています。
逸話2「徳川慶喜を嫌っていた理由は…」
徳川慶喜を嫌っていた理由は、いたってシンプルで「自分より徳川慶喜の方が美形だったから」だそうです。「慶喜が来ると大奥の女性が騒ぐから面白くないといっていた」と側小姓が明治になってから語っています。
それ以外にも慶喜は、聰明で諸大名から期待されており、有能人物を見出し、渋沢栄一などを見出すなど非常に万事において万能な人物でした。弓道や維新後は写真を嗜んだり、器用に何でもできる人物であった慶喜に嫉妬していたのかもしれません。