死因は毒殺説も囁かれた
家定の死因ははっきりとはわかっていませんが、一橋派の大名を処分した翌日に薨去しました。そのあまりの急死に、一橋派の毒殺説が囁かれています。しかし家定は猜疑心が強く、非常に毒殺を恐れ、祖父のところで出た食事に箸に手を付けないほどだったといいます。そんな人物が毒殺されるかという意見もあり、真相は藪の中です。
そのために死因は「脚気狭心」や「コレラ」が原因だったのではないかと推察されています。今でこそ脚気は「ビタミン欠乏」が原因とわかっている病ですが、当時は原因不明であり、白米が流行していた江戸で流行していたため「江戸病」と呼ばれた病気でした。
また当時コレラも流行しており、同じく原因不明ですが発病して3日程で亡くなるために、「3日コロリ」と恐れられた病でした。残った記録から、脚気やコレラが急死の病として一番自然と考えられています。
将軍には向かないといわれた心身
家定の性格は、「神経質で繊細」であったようです。また、カステラや饅頭などお菓子作りが趣味だったといわれています。煮豆やふかし芋を作って、自分だけでなく家臣にも振舞ったそうです。そのために「イモ公方」と陰口を言われていました。
身体も幼少の頃から病弱で、幼少に疱瘡など大病にもかかり、目の周りに痣が残っていたといいます。
そのため人前に出ることを極端に嫌い、乳母にしか心を開かなかったといいます。しばしば癇癪を起こし、周囲を困らせたりしていたようです。
そのため当時の評価は散々で、「安政紀事」には「疾ありて政をきくことあたはず、ただ廷中わずかに儀容を失はざるのみなり」と書かれ、松平春嶽は「凡庸の中でも最も下等」と評しています。
しかし幕臣の朝比奈昌広は、「汎用だ暗愚だと言われるが、それは越前(松平春嶽)や薩摩(島津斉彬)らと比較するからであり、300諸侯の中には家定公より劣る大名は多くいたはずである」と弁護しています。そうではあるものの、やはり名君という評価では決してなかったことがわかります。
徳川家定の功績
功績1「次代の徳川将軍を指名したこと」
家定は1858年、自分の死の1週間ほど前に諸大名を招集して、徳川家茂を将軍後嗣の意向を伝えています。これは人前に出ることを嫌い、ほとんど将軍らしいことをしなかった家定にとって「初めて将軍らしいことをした」と評されました。
当時徳川慶喜を推す一橋派と、家茂を推す南紀派とで後継ぎ争いをしていました。この頃には病が悪化し、廃人に近い状態となり政務が行えない状況となっていました。しかし一説によれば、一橋派を嫌っていたために家茂を指名したそうです。大老井伊直弼が主導をしていたとはいえ、自分の意志を打ち出したことは家定にとって大きなことだったと推察できます。
功績2「慶喜推進派を処罰したこと」
1858年家定は、死の前日に「慶喜を推進する一橋派」の処罰を下しています。主導は井伊直弼であったものの、家定が台命(将軍の命令)を発して行っています。内容は徳川慶勝や松平慶永、徳川斉昭・慶篤と一橋慶喜に対する隠居謹慎命令(慶篤のみは登城停止と謹慎)でした。
しかし翌日に、将軍家定は突然薨去します。あまりにも突然かつ処罰後すぐの死だったために「毒殺説」が噂されるほどでした。毒殺だったのか、ストレスによる病気の悪化なのかは今となってはわかりませんが、このことが後に多くの尊王攘夷派や一橋派を処罰する、「安政の大獄」と呼ばれる出来事へと発展していったのです。そのスタートは家定の台命だったのも、以前の家定からは想像出来ない行動だったといわれています。