「ゴルバチョフってどんな人?」
「ゴルバチョフは、今どうしているの?」
「ゴルバチョフと日本のかかわりは?」
この記事を訪れた皆さんはそのような疑問をお持ちかもしれません。ゴルバチョフは、ソビエト連邦最後の指導者です。ペレストロイカと呼ばれる一連の改革やグラスノスチ(情報公開)を進めるなどしてソ連の政治改革を図り、冷戦を終結させました。
半世紀以上続いた東西冷戦を終わら、歴代指導者のなかで唯一存命しているゴルバチョフ。名前は聞いたことがあっても、実際の人物像や性格、功績を成し遂げた経緯、今は何をしているかなど詳細を知らない人も多いはず。
そこで今回は、歴代最高指導者とうたわれたミハイル・ゴルバチョフの生涯を解説します。ゴルバチョフがあげた功績はもちろん、性格や逸話も年表にまとめつつ解説していきます。
語り継がれる名声の裏付けとなる彼の生涯をのぞきに行きましょう。それでは参ります。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
ミハイル・ゴルバチョフとはどんな人物か
名前 | ミハイル・ゴルバチョフ |
---|---|
誕生日 | 1931年3月2日 |
生地 | ロシア、スタヴロポリ地方 プリヴォリノエ村 |
配偶者 | ライサ・ゴルバチョフ |
ミハイル・ゴルバチョフの生涯をハイライト
ゴルバチョフは、1932年にソビエト連邦のスタヴロポリ地方の出身です。スタヴロポリ地方はカフカス山脈の北部に位置する地域で、ゴルバチョフはこの地の農民の子として生まれました。地元の学校で優秀な成績を収めた彼は、モスクワ大学に入学します。
1952年、ゴルバチョフはソ連共産党に入党。翌年にライサ夫人と結婚しますした。その後、ソ連検察庁の試験を受けますが失敗し、地元に戻りました。地元では実直な仕事ぶりが評価され、1970年にスタヴロポリ地方党委員会第一書記となり、翌年に党中央委員となります。その後も順調に出世をつづけ、1985年に54歳の若さでソ連の書記長となりました。
ソ連の指導者となったゴルバチョフは経済中心の改革を実行しました。これをペレストロイカといいます。しかし、開始早々、チェルノブイリ原子力発電所の事故とそれに関する報告遅れという事態に直面。ゴルバチョフはグラスノスチ(情報公開)をより進めました。
また、外交面では東欧諸国の自主性を尊重する新思考外交を展開し、西側との話し合いにも応じる姿勢を見せます。その結果、アメリカのブッシュ大統領とのマルタ会談で冷戦終結にこぎつけることができました。
しかし、ペレストロイカによる国内改革はうまくいかず、国民の不満が高まります。くわえて、バルト三国がソ連からの独立を宣言するなど状況は悪化しました。これらの動きに妥協的なゴルバチョフに対し、保守派がクーデタを実行します。クーデタはエリツィンら改革派の抵抗で挫折しましたが、ゴルバチョフは政局の主導権を失い失脚しました。
農民出身の政治家
ゴルバチョフは、スタヴロポリ地方のプリヴォリノエ村で農民の子として生まれました。このころ、ソ連では農業集団化政策が行われ、ゴルバチョフが生まれた村でも農民たちはコルホーズという集団農場に所属します。
第二次世界大戦後、ゴルバチョフはコンバインの運転手として働きました。モスクワの大学を卒業後、故郷のスタヴロポリ地方に戻り農業行政官となります。党中央の組織でも彼は農業担当となりました。のちの華々しい活躍を思うと、彼が農業の専門家として活動していたというのは意外な感じがしますね。