ミハイル・ゴルバチョフの生涯年表
1931年 – 0歳「スタヴロポリ地方プリヴォリノエ村で生まれる」
1931年3月2日、ミハイル・ゴルバチョフはプリヴォノエ村で誕生しました。幼少期、スターリンによる大粛清で祖父のアンドレイが投獄されます。スターリンが進める農業集団化に反対するサボタージュに参加したと疑いをかけられたためです。
その10年後、今度は独ソ戦に巻き込まれます。父のセルゲイ・アンドレーヴィチはソ連軍の兵士として従軍しました。戦火は彼が住むスタヴロポリ地方にも及び、一時、この地方はドイツ軍の占領下におかれます。幼いころから波乱万丈だったことが伺えますね。
1950年 -19歳「モスクワ大学に入学し、ライサと学生結婚」
地元の学校で優秀な成績をおさめたゴルバチョフは、18歳で労働赤旗勲章を授与されます。こうした活躍もあり、ゴルバチョフはスタヴロポリ市の推薦でモスクワ大学法学部に入学。
在学中、ゴルバチョフはのちに妻となるライサ・マクシーモヴナ・チタレンコと出会いました。その後、ミハイルとライサは学生結婚し、人生を共に歩むことになります。
大学卒業後、ゴルバチョフはソ連検察庁の試験を受けるも不採用。そのため、妻と1957年に生まれていた娘を連れて地元のスタヴロポリに帰ります。
1955年 – 24歳「地元で出世の階段を駆け上がる」
地元に戻ったゴルバチョフは農業行政官となります。彼は実直な仕事ぶりで評価を高め、地区初期に昇進。1955年にはスタヴロポリ市コムソモール(地域の青年団)の第一書記となり、1962年にはスタヴロポロ市党第一書記となりました。
彼の出世はまだまだ続きます。1970年にはスタヴロポリ地方全体の第一書記となり、1971年に党中央委員に選出されました。ゴルバチョフが地方で出世していた時代はスターリン批判を行ったフルシチョフの時代と一致します。改革の風土の中、若くて能力があるゴルバチョフが注目されたのでしょう。
1978年 – 47歳「党中央委農業担当書記に就任」
1978年、ゴルバチョフは急死した前任者にかわってソ連全体の農業を統括する担当書記に任命されました。翌年にはソ連の政権中枢である政治局員の候補となりました。これで、ゴルバチョフはソ連の中枢に入り込んだことになります。
1982年、長期政権を担っていたブレジネフが死去すると、アンドロポフが書記長に就任します。ゴルバチョフはアンドロポフの最側近として政治に参加しました。そして、彼はアンドロポフの指名により政治局会議の議長となります。
1985年 – 54歳「党中央委農業担当書記に就任」
アンドロポフが1984年に亡くなったとき、ゴルバチョフは後継者に指名されます。しかし、そのあとで開かれた後継者を決める会議でゴルバチョフは書記長に指名されませんでした。これは、当時53歳で他の中央委員よりも年が若かったからかもしれません。
かわって書記長となったのはアンドロポフの政敵だったチェルネンコです。ところが、チェルネンコは反対派閥に属していたゴルバチョフをナンバー2にあたる第二書記に任命します。このことは、ゴルバチョフが党指導部内で党派を問わず認められていたことをしめしているのではないでしょうか。
そして1985年にチェルネンコが亡くなると、ゴルバチョフは書記長に就任。前任のチェルネンコより73歳だったことを考えると20年以上若返ったことになります。この若きリーダーは閉塞していたソ連に新しい風を吹き込むのではないかと期待されました。
1991年 – 60歳「8月クーデタで失脚」
書記長となったゴルバチョフは硬直化していた経済の改革に乗り出します。それがペレストロイカでした。しかし、これに共産党官僚(ノーメンクラツーラ)たちが反対したため、改革は経済面でとどまらず政治面にも及びます。
また、ゴルバチョフが進めた新思考外交は、各地で封じ込められていた民族意識が噴出するきっかけを作りました。その代表がバルト三国問題です。バルト三国は独ソ不可侵条約の秘密条項でソ連に編入されていたのですが、そのことが発覚。バルト三国は併合は不当だとして独立を訴えました。
こうした動きに対しゴルバチョフは旧来のソ連の仕組みを変え、各地の共和国の主権をより尊重する新連邦条約を結ぶことで乗り切ろうとしました。
ところが、これに猛烈に反対したのがソ連共産党の保守派です。保守派はゴルバチョフの行動が改革派や独立派に対する過度な妥協で、これを認めたらソ連が崩壊すると確信。武力でゴルバチョフ打倒をはかりました。
保守派はゴルバチョフをクリミア半島の別荘に監禁し政権を奪取しようとします。しかし、ロシア共和国のエリツィンはモスクワ市民と共にこれに反対。クーデタは正統性を失い失敗に終わりました。とはいえゴルバチョフは事態解決に何の活動もできず、権威が急低下。これが原因で失脚してしまいました。
ミハイル・ゴルバチョフの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
『ゴルバチョフ回想録』
ゴルバチョフによる回想録。ゴルバチョフ自身が地方での出世や中央での自分の活動を思い出して書いた本で、冷戦時代のソ連を知れるとても貴重な記録です。
上巻は主に国内政治について、下巻は新思考外交やソ連の崩壊、8月クーデタについての記述がメインとなります。当事者による記録であり、その点で主観的な内容です。しかし、当事者にしか語ることができない内容が含まれており、とても興味深く読むことができました。
『世界を震撼させた三日間』
ゴルバチョフが8月クーデタについて著述した回想録です。それまで、ソ連の最高権力者として行動し、新連邦条約締結によって事態の打開を目指していたゴルバチョフが突如として権力の座から引きずり降ろされた様子が目に浮かぶ内容でした。
クーデタの具体的な動きや彼自身の心情などを、余すところなく書いているように感じます。この日を境にゴルバチョフは事実上権力を失い、ソ連が崩壊したことを思うととても感慨深いと感じました。ソ連崩壊について詳しく知りたい人に是非読んでほしい内容です。
ミハイル・ゴルバチョフについてのまとめ
いかがでしたか?今回は、ミハイル・ゴルバチョフの生涯を解説しました。
ゴルバチョフは農民出身で、かつスターリン死後にソ連で出世した新しい世代の政治家です。フルシチョフが展開したスターリン批判の波により、出身地であるスタヴロポリ地方で異例のスピード出世を遂げました。
彼の出世はとどまるところを知らず、40代で中央の政界に入ります。そこではアンドロポフの知遇を得て後継者に目されるまでになります。
しかし、彼にとって本当の試練は書記長就任後でした。理想を掲げたペレストロイカはうまくいかず、グラスノスチによってソ連にとって都合の悪い情報が公開された結果、各地で民族主義が台頭します。そして、新たな枠組みを作ろうとした時、保守派のクーデタ未遂やエリツィンの登場によって彼の改革は志半ばで終わりを告げました。
読者の皆様が、ミハイル・ゴルバチョフに関し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。