ミハイル・ゴルバチョフの功績
功績1「ペレストロイカを実行した」
ゴルバチョフは「ペレストロイカ」と呼ばれる改革を行いました。ペレは再び、ストロイカは建築を表す語。二つ合わせて、再構築という意味になります。ゴルバチョフが再構築しようとしたのは長年の共産党支配により硬直化した経済でした。
1986年の第27回ソビエト大会で、ゴルバチョフはソ連の社会・経済が停滞している現状を認め、改革の必要を訴えました。この演説後、ゴルバチョフは国有企業の規制緩和や国家による産業の直接支配の見直しなどを進め、市場経済の一部導入を図ります。
物資が不足し、日常生活が苦しくなっていたソ連の人々はゴルバチョフの改革を歓迎しました。しかし、ソ連経済は部分的な市場経済の導入程度では立て直せない状態で、ペレストロイカは不完全燃焼に終わります。
功績2「グラスノスチを行った」
グラスノスチとは、「情報公開」を意味するロシア語です。グラスノスチはペレストロイカの重要な柱と位置付けられました。グラスノスチが掲げられた背景にはソ連共産党の秘密主義があります。
ソ連では国家機密保持のもと、共産党が強力な情報統制を行っていました。ブレジネフ政権以後、徐々に情報が公開されるようになりましたが、まだまだ不完全なものだったのです。
チェルノブイリ原発事故とは?原因から被害・死者数、現在の様子まで解説
情報公開の必要性を痛感させたのは、1986年のチェルノブイリ原発の事故です。この時、事故の情報がすぐにゴルバチョフのもとに届けられず、対応が後手に回りました。これを教訓としたゴルバチョフはさらなる情報公開を進めます。
功績3「冷戦を終わらせた 」
ゴルバチョフは半世紀以上続いた東西冷戦を終わらせました。ゴルバチョフはアメリカのレーガン大統領と会談し、INF全廃条約を締結するなど核軍縮をすすめ東西の軍事的緊張を緩和します。
ベルリンの壁はいつ、なぜ崩壊したのか?一連の流れや現在の様子も紹介
さらに、東欧諸国の自主性を尊重する新ベオグラード宣言を発表するなど、従来と異なる外交姿勢を打ち出しました。加えて、関係が悪化していた中国への訪問を30年ぶりに実行します。このようなゴルバチョフの外交を新思考外交といいました。
マルタ会談とは?内容や参加者、ヤルタ会談との違いを分かりやすく解説
こうしたソ連の外交方針転換は、東欧諸国の民主化を進めます。その結果起きたのが東欧革命でした。それだけではなく、1989年11月にはベルリンの壁が解放されドイツ統一が実現。時代が大きく変化しました。これをうけ、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領は地中海のマルタで会談し、冷戦の終結を宣言します。
ミハイル・ゴルバチョフにまつわる逸話
逸話1「ゴルバチョフはロシアで不人気」
母国ロシアでのゴルバチョフの人気は高いとは言えないものでした。ペレストロイカに失敗しソ連を崩壊させたと評価されていたからです。ちなみに、西欧諸国では「ゴルビー」の愛称で親しまれ、高い人気を誇ていました。
実際、1996年に実施されたロシア大統領選挙にゴルバチョフは出馬しましたが、得票率はわずか0.5%。2001年にロシア社会民主党の党首となりますが、2004年に辞任します。
逸話2「徹子の部屋に出演した」
ゴルバチョフはテレビ朝日系列の番組「徹子の部屋」に2度、ゲストとして出演しました。後年、視界の黒柳徹子はゴルバチョフについて次のようなエピソードを語っています。
政治家でいえば、ゴルバチョフさんには2回出てもらって頂いてるんです。とっても魅力的な方で、「好きな詩はございますか?」と聞いたら、朗々とレールモントフという人の詩を朗読してくださったんです。あとで探して読んでみたら、島から船が大海原に出ていく、それを見た時の心情を謳った、とてもロマンチックな内容の詩でした。そんな詩をさらっと朗読できる大統領はすごい、と思いました。
黒柳徹子が明かす45周年「徹子の部屋」秘話 唯一「カットしたシーン」とは(デイリー新潮) – Yahoo!ニュース
また、ゴルバチョフと黒柳徹子の親交は今も続いており、彼女が出演した番組にゴルバチョフ財団の名で花が贈られるなどしていますよ。
逸話3「ルイ・ヴィトンの広告に起用された」
2007年、ゴルバチョフはフランスの高級バッグメーカーであるルイ・ヴィトンの広告に起用されました。これは、ベルリンの壁のすぐそばで停車している車の後部座席に座るゴルバチョフの姿を被写体とした広告です。
広告には「なぜ人は旅をするのか。世界を知るため?それともそれをかえるため?」というキャッチコピーが添えられています。時代の変革者となったゴルバチョフを象徴するかのような写真でとても印象深いですね。