現存する即身仏と所在地
現存している即身仏にはどのようなものがあるのでしょうか。また、どこのお寺で見ることができるのでしょうか。日本に現存している即身仏は約17体と言われていますが、一般人でも見ることができるお寺とあわせて紹介します。
東北地方
仏海上人(ぶっかいしょうにん)
仏海上人は日本で最後の即身仏と言われている仏様です。1903年に76歳の年齢で土中入定しました。
仏海上人は、1828年に新潟県村上市に生まれます。俗姓を近藤庄次郎といい、16歳の若さで出羽三山の湯殿山注連寺に入門。山籠りと木食行を終えると庄内地方を中心に布教を行い、時には貧民救済にも尽力し大きな貢献を果たします。
土中入定の際に「死後3年経ったら掘り起こしてほしい」と遺言を残しますが、明治初期に発布された墳墓発掘禁止令により掘り起こせずにいましたが、1961年に村上市教育委員会と日本ミイラ研究グループによって発掘調査が行われ、仏海上人は即身仏として発見されました。
仏海上人は住職を勤めた新潟県の観音寺に祀られています。
忠海上人(ちゅうかいしょうにん)
忠海上人が祀られている海向寺は空海によって開かれた真言宗のお寺です。空海の「海」の字を取って「海向寺」と名付けられたといいます。
忠海上人は庄内藩(現在の山形県鶴岡市)の武家の息子でした。仏門に入ったあとに1000日間の木食行を果たし、1755年の57歳の時に土中入定したと伝えられています。
海向寺には円明上人の即身仏も安置されており、2体の即身仏を見ることができる唯一のお寺です。
真如海上人(しんにょかいしょうにん)
真如海上人は山形県朝日村に生まれました。仏門に入る前、山から伐採した木を運ぶソリ引きの仕事をしていた真如海上人。ある日、3人の子供をソリに乗せたところ1人の子供が事故で亡くなってしまいます。その弔いの気持ちから仏教に帰依し、湯殿山での修行を始めました。
厳しい修行を終えたあと、東北6県、新潟、長野まで赴き、布教活動を行った記録が残されています。
真如海上人が生きている時代は「天明の大飢饉」の真っ只中で、東北地方だけでも数十万人が餓死しました。その時、96歳という年齢だった真如海上人は苦しむ民衆を仏教の力で救おうと土中入定することを決意したのです。
真如海上人は修行に励んだ湯殿山の総本山瀧水寺に祀られています。今でも真如海上人の即身仏の周りには、参拝者からの御礼参りの品や手紙が多数供えられています。
関東・関西地方
舜義上人(しゅんぎしょうにん)
関東で即身仏を一般参拝できるお寺は「妙法寺」だけです。そこに安置されているのは、舜義上人。1608年に相模国三浦郡(神奈川県三浦氏)の三浦郡城主の一族に生まれました。
病気やけがで苦しんでいる人々に手をかざせばたちまち治ってしまうという不思議な力を持つ鎌倉の住職だったそうです。
天台宗の指導的立場になった後、69歳の時に弟子のいる妙法寺に隠居し、78歳の時に妙法寺で亡くなり石仏に納められます。
しかしその87年後、妙法寺48代住職の亮順の夢枕に舜義上人が立ち、「我再び世に出て衆生を済度せん」と告げたという奇跡が起こったのです。亮順が石仏を開けるとミイラ化した舜義上人が発見されました。
即身仏になること志していなかった珍しい例ですが、今でも見ることができるのはその際に見つかった舜義上人の即身仏です。
石頭希遷(せきとうきせん)
石頭希遷は700年~790年に生きた唐の禅僧です。中国の湖南省南岳「南台寺」で790年に91歳で亡くなり、ミイラ化されました。なぜ中国の僧侶である石頭希遷が、神奈川県の總持寺に安置されているのでしょうか。
それは1911年に清で生じた辛亥革命に関係しています。ミイラ仏を焼き払う運動が生じた辛亥革命で、石頭希遷が安置されたお寺も焼き討ちに遭遇。そこで石頭希遷の研究家であった日本人・山崎彪氏が火の中からミイラ仏を救い出し、日本に運びました。
運ばれた石頭希遷の即身仏は青梅市の山寺に安置されますが、第二次世界大戦が始まると寺は陸軍の結核病棟になり、寺自体が荒廃するようになります。
さらなる移動を余儀なくされた石頭希遷の即身仏は、日本ミイラ研究グループのものとして早稲田大学・安藤更生教授の研究室に安置され、その後、總持寺が石頭希遷の即身仏がある事実を知り再三要請した結果、昭和50年に總持寺に安置されることになりました。
石頭希遷の即身仏には、中国独自のミイラ製造法であり人類学上でも貴重なものだとされる漆布が貼ってある痕跡があります。
関西
弾誓上人(たんぜいしょうにん)
京都の古知谷阿弥陀寺には弾誓上人という僧侶の即身仏が安置されています。残念ながら非公開となっており一般では見ることができません。
弾誓上人は1552年に尾張国(現在の愛知県)で生まれ、弱冠9歳にして出家しました。若くして熊野三社を含む関西圏で修行し、45歳の時に生身の阿弥陀仏に遭ったというエピソードが残されています。
江戸にまで赴き布教活動に専念しますが、京都に戻ってきた時に、空に仏様の影がたなびいているのを目にして京都を最後の修行地に定めるのを決意。
自分の頭髪を植えた本尊を刻んだ「本阿弥寺」を建立したのちに62歳で亡くなります。その亡骸は石棺に納められ、本堂脇の巌窟に即身仏として安置されています。
即身仏の歴史を簡単解説
平安時代まで遡る即身仏ですが、この長い期間、どのような歴史をたどってきたのでしょうか。即身仏にまつわる歴史について説明します。
平安時代から江戸時代
平安時代から江戸時代にかけて仏教を信仰する人も多かったことから、即身仏を志した僧侶、実際に土中入定した僧侶もたくさんいたとか。真言宗の総本山・高野山では、多くの僧侶が即身仏になった記録が残されているのも確認されています。
江戸時代になると、東北地方での土中入定が目立つようになります。天明の大飢饉など数々の困難が生じた東北では、出羽三山で修行していた僧侶が民衆を仏教の力で救おうとしたケースが多くありました。
しかし史料に残る記録と比較すると、その即身仏はいまだ発見されていません。日本の多湿という環境風土によって遺体が腐敗してしまったり、白骨化して埋まったままのものが多いのだそうです。
明治時代以降
明治時代に入ると1868年に、埋葬された遺体を掘り起こすことを禁じる法律「墳墓発掘禁止令」が発布。土中入定した僧侶の遺体を発掘することが禁止されました。
例えば新潟県観音寺の仏海上人は、「死後3年後に掘り起こしてほしい」と遺言を託していましたが、墳墓発掘禁止令によって長く掘り起こせないままでいました。山形県南岳寺の日本の鉄龍海上人(てつりゅうかいしょうにん)は、信者の手によって内密に掘り起こされ、没年も詐称されていたとか。
さらには土中入定して絶命するのを待つのは自殺行為であり、さらに弟子が即身仏になることを手伝うことは自殺幇助罪や死体遺棄罪にあたるため、信教の自由があっても即身仏になることは全面的に禁止されるようになったのです。
まとめ
今回は、即身仏について解説しました。
一見、その見た目から恐怖を感じる即身仏ですが当時の僧侶たちが民衆を救いたいという強い信念のもと命を捨てた背景をを知れば知るほど、その恐怖は解けていきました。
中には伝染病の蔓延から多くの人を救おうと土中入定した僧侶も存在し、現在の状況と重なる部分があるのを痛感しました。即身仏は怖いミイラではなく、強い意志と信仰心に基づいた行動の証のひとつではないでしょうか。
この記事を読んで、即身仏に興味を持っていただけたら嬉しいです。