酒呑童子の逸話
逸話1「日本三大妖怪の一人だった」
酒呑童子の凶悪さを示すエピソードの中に、「日本三大妖怪」という解釈が存在しています。三大妖怪は”酒呑童子”、”玉藻前(たまものまえ)”、”大嶽丸”とされ、それらは全て歴史書に(真偽はどうあれ)記載された存在であるという共通点を持っています。
これら三大妖怪は、「討伐後に首や遺骸の一部が宝蔵に納められた」という共通点を持ち、そうした”宝物”となり得る側面から、文化人類学的に別格の妖怪だった証とされているようです。
もちろんこれらは後世の考察であるため、実際のところは不明なままですが、少なくとも酒呑童子が当時の人々にとって大きな恐怖の大将だったことは理解できるかと思います。
逸話2「策略を嫌う武人気質だったとも言われる」
圧倒的な力で都を恐怖に陥れた酒呑童子ですが、一方で彼は卑怯な策略を使わない武人気質の持ち主であったとも言われています。
その性質は、やはり酒呑童子が討伐される場面に強く表れており、「鬼に横道はない(=鬼はこんな卑怯なことはしない)」と頼光を責めたことからも、彼の性質を読み取ることが可能です。
都を恐怖させた鬼でありながら、後世には大明神となったり神社の由来になったりと、神聖な扱いを受けることも少なくない酒呑童子。彼がそのような扱いを受けるのは、さっぱりとしたその性質も要因なのかもしれません。
逸話3「神の血を引く存在だった?」
伊吹山出身説に由来する説であり、その生まれを考えると当然ではありますが、ヤマタノオロチを父に持つ酒呑童子は、半分神の血を引く存在だったといえます。
ほかにも、明確に神の子と示されているわけではありませんが、越後出身説や大江山出身説にも、人間ではない何かの血を引いていることを匂わせるエピソードが多数存在しているなど、酒呑童子と神は切っても切れない存在だといえるようです。
逸話4「実はドイツ人だったという説もある」
ギャグのような説ではありますが、「酒呑童子が漂着したドイツ人だった」という説も、信憑性は低いながら確かに存在しています。
その説によれば、酒呑童子の本名は”シュタイン・ドッチ”というドイツ人。「生き血を酒のように飲み干す」というのも、当時の日本にはなかったワインを飲んでいるところを勘違いされただけというものであり、こうなってくると単純に、討伐されたのも濡れ衣だったように思えます。
とはいえ、この説の根拠は非常に薄く、昭和の頃に週刊朝日に掲載された『酒顛童子』という短編小説が元ネタである可能性が高いなど、あくまで与太話だと考えておいた方がよさそうです。
酒呑童子の年表
平安時代初期「諸説ある誕生」
越後出身説における誕生
酒呑童子の誕生は、大別するに越後説と伊吹山説が最も有名で、なおかつ信憑性が高いものとなっています。
越後出身説における酒呑童子は、父母についての情報が一切なく、「幼少期は越後の山寺で過ごした」という記載だけが、その生まれを示す情報となっています。
また、越後出身説を採用する場合、幼名は外道丸とするのが一般的です。
越後出身説における誕生(異説)
越後出身説の異説としては、鍛冶屋の子、あるいは城主の子として生まれたという説があります。
鍛冶屋の子説における酒呑童子は、母の胎内で16か月を過ごしたとされ、生まれた時には髪や歯が生えそろい、5歳時ほどの言葉を話す異様な美少年として誕生したと言われています。また、非常に凶暴な子供だったとも記録されており、「鬼子」と呼ばれて周囲から疎まれる存在でもあったようです。
城主の子説における酒呑童子は、砂子塚城主である岩瀬俊綱の子として、母の胎内で3年を過ごしてから生まれたとされています。この説でも美少年で乱暴者という性格は変わっていません。
伊吹山出身説における誕生
伊吹山出身説における酒呑童子は、ヤマタノオロチと玉姫御前という女性の間に生まれた子だったとされています。
この伝承において、玉姫御前は酒呑童子を生むと同時に伊吹山に入ってしまったとされ、幼少の酒呑童子は祖父である須川の長者によって養育されたと記録されています。
伊吹山出身説を採用する場合は、幼名は伊吹童子とするのが一般的ですが、この名義はさほど有名なものではありません。
奈良出身説における誕生
上記の二つの説と比べると少しばかり信ぴょう性が落ちますが、酒呑童子には奈良出身という説も存在しています。
この説においては、酒呑童子の誕生や生育環境はまったく明示されておらず、彼は白毫寺の稚児が好奇心によって鬼となった存在だと伝えられているようです。