酒呑童子とはどんな妖怪?伝説や逸話、頼光・四天王との関係も紹介

酒呑童子とは、平安時代に恐れられた悪鬼の名前です。大江山を根城に多くの鬼を率い、京都の町を荒らしまわったとされるその姿は、今も様々な創作で盛んに描かれています。

酒呑童子と頼光主従を描いた絵

とはいえ、”鬼”という出自であることから実在には疑問が残る存在でもあり、どちらかといえば平安時代に名をはせた源頼光の引き立て役というイメージが強い方もいらっしゃるかもしれません。

それでは酒呑童子という鬼はいったいどういう存在で、どんな経緯を経て討ち取られることになったのか。この記事では、伝承に見られる酒呑童子について解説していきたいと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

酒呑童子とはどんな人物か

名前酒呑童子
別名外道丸、伊吹童子
誕生日不明(平安時代初期)
没日995年
生地不明
(越後国、蒲原郡中村説が有力)
没地京都、大江山
配偶者不明
埋葬場所京都、老ノ坂峠、首塚大明神付近

酒呑童子の生涯をハイライト

酒呑童子が拠点にしていた、大江山の現在。

酒呑童子の生まれについては、非常に多くの説が存在しています。越後の山寺で生まれたという説や、越後の鍛冶屋の子として生まれたという説、あるいは伊吹山の大明神の子という説など、その生まれは確定されていないのが現状です。

とはいえ、多くの説の中でも「人間だったが、何かの原因で鬼となった」ということは共通しているため、酒呑童子がもともと人間だったということは共通見解だといってもいいでしょう。

酒呑童子を討伐した源頼光は、後に幕府を開く源頼朝や義経の先祖でもある。

ともかく様々な要因で鬼となった酒呑童子は、『大江山絵巻』や御伽草子などに描かれています。酒呑童子は京都から若者や姫君をさらっては食い殺す悪鬼として描かれ、源頼光と藤原保昌らに討伐される敵役として登場します。

頼光と保昌、そして頼光四天王によって毒酒を飲まされた酒呑童子は、泥酔状態のまま首を刎ねられて討伐され、最期を迎えたそうです。だまし討ちに遭った酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光たちを罵倒し、首だけで頼光に噛みつこうとしたとも記録されています。

酒呑童子の首が埋葬されたといわれる、首塚大明神の現在。

こうして討伐された酒呑童子の首の行く末にも諸説がありますが、一説では平等院の宝蔵に収められたとも、大江山付近の塚に埋葬されたとも言われており、現在も酒呑童子にまつわるスポットが数多く残っている状況です。

「大江」と「伊吹」の二説がある住処と生まれ

実は源頼光よりも先に、何度も酒呑童子と対峙していたという最澄。

伝承に残る酒呑童子の来歴は、大きく分けて「大江山説」と「伊吹山説」があります。

大江山説は、最古の記録である『大江山絵巻』や『御伽草子』を証拠とする説であり、現在では広く知られている説です。この説における酒呑童子は、越後の山寺出身であるとされ、最澄や空海によって山寺を追われて、大江山に流れ着いたとされています。

伊吹山説における酒呑童子の父は、日本神話に登場するヤマタノオロチである。

伊吹山説は、主に『酒典童子絵巻』を根拠とする説であり、歴史こそ大江山説に劣るものの、資料の信ぴょう性が高い説です。この説では、酒呑童子は伊吹山の大明神(ヤマタノオロチ)と、近江の長者の娘である玉姫御前の間に生まれた子だとされ、放浪の末に大江山に行きついたとされています。

生まれから違う二つの説ですが、最終的に酒呑童子が鬼となり、大江山にて源頼光らに討伐されるという結末は変わりません。しかし酒呑童子の物語の中に、最澄や空海などの日本史上に名を遺す偉人が登場していることもあるため、その生涯は日本史上の意外なところに繋がっているのかもしれません。

酒と女と暴力を愛する”鬼らしい鬼”

「人を襲い、食う」というのが鬼のイメージだが、酒呑童子は誰よりも鬼らしい鬼だった。

酒呑童子という鬼の性質を示すのに適切なのは、「鬼らしい鬼」という言葉になるだろうと思います。

名前の通りに酒を愛し、京都の町に気ままに降りては若者や姫君をさらって、自分に仕えさせたりその肉を食ったりと、伝承に残る酒呑童子は「まさに鬼」と呼べる傍若無人ぶりを発揮しています。

酒呑童子に従った茨木童子は、酒呑童子と同格の鬼でありながら彼に心酔していたとも言われる。

しかし、多くの配下を従えたというカリスマ性や、だまし討ちのような卑怯を嫌う性質、そして死後に大明神化したという伝承などから、「酒呑童子は悪人か?」と問われると、必ずしも肯定できない部分も多く見受けられています。

『大江山絵巻』において、酒呑童子は敵役として描かれます。しかし多くの伝承と組み合わせることで、彼の悪人としてではない一面を見ることができるのも、忘れてはならない一面だといえるでしょう。

酒呑童子の死と、その死後

頼光に噛みつこうとする酒呑童子の生首。

酒呑童子の最期はどの記録でも「帝の命令で派遣された、源頼光と藤原保昌、頼光四天王によって討伐される」と一貫しています。

山伏に扮して大江山を訪れた頼光一行は、手土産として神便鬼毒酒と呼ばれる鬼にとっての毒酒を献上。これによって泥酔してしまった酒呑童子は体を押さえられ、頼光によって首をはねられました。

斬り落とされた酒呑童子の生首は、それでも頼光の首に噛みつこうとしたようですが、その最後のあがきは兜によって阻まれ、酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光たちを責めながら死んでいったと伝わっています。

その死後、酒呑童子の首は正倉院に収められたとされている他、彼の配下だった茨木童子はその討伐から何とか逃げ延び、頼光四天王の一人である渡辺綱と何度か戦いを繰り広げたと言われています。

「大江山四天王」と「頼光四天王」

武者を率いた頼光と、鬼を率いた酒呑童子はある種似た名称で配下を率いていた。

酒呑童子にまつわる”四天王”という言葉において、「大江山四天王」と「頼光四天王」は混同されることがあります。

「大江山四天王」とは、酒呑童子が率いたとされる四体の鬼のことです。一般に星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子の四体とされ、それらよりも格上に茨木童子が存在しています。

一方で「頼光四天王」は、源頼光の酒呑童子討伐に同行した、四人の武者のことです。渡辺綱、坂田金時(公時)、碓井貞光、卜部季武が四天王とされ、酒呑童子討伐の大将格は、藤原保昌ではなく渡辺綱だったという説もあります。

”四天王”という言葉で惑わされるかもしれませんが、これら二つは全く違うもの。混同しないように注意が必要です。

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