地下鉄サリン事件とは?経緯や目的、犯人まとめ【被害者の後遺症も紹介】

地下鉄サリン事件の流れ

1995年3月18日ー地下鉄サリン事件が発案される

地下鉄サリン事件が発案されたリムジンの車中

サリンの製造のためのプラントがあった上九一色村で異臭騒ぎを起こしたオウムは、警察庁からマークされ強制捜査が行われるのは時間の問題でした。

1995年3月18日に行われたオウムの正悟師昇格祝賀会の帰りの車内で、強制捜査をなんとか逃れたい麻原は何かいい案はないかと村井に相談します。そこで村井が提案したのが地下鉄にサリンを撒いて警察を混乱させるというものでした。

麻原は「それはパニックになるかもしれないな」と興味を持ったと言います。そしてその日のうちに計画が練られ始め、通勤時間の霞が関に集まる地下鉄を狙うことが決定しました。

1995年3月19日ーサリン完成

遠藤誠一

3月18日の正悟師昇格祝賀会から上九一色村に帰った麻原は、生物兵器開発担当であった遠藤誠一にサリンの製造を指示します。しかし遠藤はサリンの殺傷能力の高さから、サリン生成に関わりたくないと思っていたようです。

翌日19日の昼ごろに麻原や村井に急かされた遠藤は、夕方ごろにサリンの生成を開始します。午後10時30分ごろには実際に使用されたサリンが完成しました。

1995年3月20日

午前8時ごろー地下鉄にサリンが撒かれる

標的となった霞ヶ関駅

1995年3月20日、サリンを持った実行犯の五人が上九一色村を出発し、丸ノ内線、日比谷線、千代田線の標的となる地下鉄の車両に乗り込みます。そして車両が霞ヶ関駅に近づいた午前8時ごろ、車両内で実行犯たちによって封が破られサリンが撒かれました。

すぐにサリンは猛威を振るい近くにいた乗客たちを襲います。呼吸困難を起こした被害者や異臭により乗客たちはパニックを起こし、当時の目撃者によると現場はさながら戦場のようだったと語りました。

午前8時20分ー警察に第一報が入る

全体ゲリラテロ配備が発令され出動した機動隊

午前8時20分ごろ、警視庁に日比谷線八丁堀駅の駅員から「2名の病人が出た」と110番通報が入りました。これを受け警視庁は8時30分ごろに警戒態勢に入り、8時53分ごろに駅の構内へ侵入する際の防毒マスク着用が義務付けられました。

午前9時前には東京23区内で全体ゲリラテロ配備が発令され、機動隊も出動しています。しかしこの時点ではまだサリンでの化学テロということは判明しておらず、爆発テロという名目での動員でした。

午前9時27分ー営団地下鉄線のすべてが運転を見合わせる

運転見合わせ、イメージ画像です。

事件が発生してしばらくは各路線とも運転を続けていましたが、被害の拡大を受けて帝都高速度交通営団は午前9時27分にすべての路線の運転取りやめを決定しました。

中でも被害の大きかった小伝馬町駅や霞ヶ関駅を通る日比谷線は終日運転を取りやめ、その他の路線でも安全確認や除染が終了するまで運転を見合わせました。運転が再開されてからもすべての駅に警察官や警備員が配置される異例の措置が取られています。

午前11時ーサリンによるテロだと記者会見で発表

警視庁鑑識課

警察は被害者の救出作業と並行して現場に警視庁鑑識課を臨場させ、残された手がかりの回収を開始します。それはまだ何が起こったかわからない車両に乗り込み、残された証拠品を集めるという非常に危険な作業でした。

鑑識が集めた現場の残留物は警視庁科学捜査研究所へ持ち込まれ検査されます。検査の結果、地下鉄で使用されたのは有毒神経ガス「サリン」だったことが判明し、午前11時の警視庁捜査第一課長による緊急記者会見でその事実が公表されました。

午後12時50分ー自衛隊出動の要請

要請を受け除染作業を行う自衛隊員

警察の発表を受けて午後12時50分、東京都知事だった鈴木俊一は自衛隊に対し「地下鉄霞ヶ関駅構内の有毒ガス除去のため自衛隊の災害派遣」を要請します。これにより陸上自衛隊第1師団司令部付隊化学防護小隊が出動し、午後1時30分に霞が関駅に到着すると除染作業を開始しました。

中村勝美さん

その後、埼玉県・大宮にある陸上自衛隊化学学校からも教官などの専門家が6人派遣され、現場で指揮を執りました。元陸上自衛隊研究本部特殊武器研究室長・中村勝美さんもその一人です。中村さんは除染作業の終了した築地駅で安全を証明するため、駅構内で防護マスクを外し安全を確かめた人物です。

また自衛隊は警察の要請を受けて自衛隊中央病院から医師免許を持つ自衛官が派遣され、「対化学兵器治療マニュアル」に基づき治療についての助言や指導を行いました。

1995年3月22日ーオウム真理教への警察の強制捜査

強制捜査を行う警察

警察は地下鉄サリン事件以前からオウム真理教をマークしており、もともと1995年3月22日に強制捜査する予定でした。残念なことにその前に事件は起こってしまいましたが、警察は予定通りオウム真理教への強制捜査を開始します。

全国で25か所ある教団の関連施設を警察が家宅捜索した結果、サリンの製造過程で使用されるイソプロピルアルコールや三塩化リンなどの薬品が発見されました。しかし決定的を証拠がつかめず実行犯も特定できなかったため、麻原を逮捕することが出来ませんでした。

1995年4月23日ー幹部の村井秀夫が刺殺される

搬送される村井秀夫

警察の強制捜査の後、村井秀夫は教団のスポークスマンを務めるようになっていましたが、4月23日に200人のマスコミ関係者が集まる前で山口組傘下の右翼団体「神州士衛館」構成員を名乗る男に刺されました。

村井はすぐに救急搬送されましたが、翌日の4月24日に息を引き取ります。村井が襲われた様子は繰り返しニュースなどで報道され、日本中に衝撃を与えました。

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2 COMMENTS

あずま

俺の母親はこの事件に巻き込まれそうになった。あの時、母親が定期券を忘れていなければ俺がこの世に存在していなかったでしょう。

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