ポツダム宣言とは?内容や受託が遅れた理由まで分かりやすく解説【全文付き】

ポツダム宣言が出された背景

ポツダム会談

スターリンやトルーマンが出席したポツダム会談

ポツダム会談は1945年7月17日〜8月2日、ドイツのポツダムで開かれた、第二次世界大戦中では最後となるアメリカ、イギリス、ソビエト連邦3国の首脳会談です。アメリカ大統領トルーマン、イギリス首相チャーチル(途中でアトリーと交代)、ソ連首相スターリンが出席し、すでに降伏しているドイツの戦後処理方針に加え、対日戦争の終結方策が話し合われました。

会談中の7月26日に発表されたのがポツダム宣言です。これはアメリカ、イギリス、中国の宣言でした。中華民国政府主席の蒋介石はポツダム会談に出席していなかったため、電信で了承を得ました。

第33代アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマン

この会談中、アメリカは原爆実験に成功していますが、その知らせをトルーマンはチャーチルにのみ伝え、スターリンには話しませんでした。共に連合国として戦っていたアメリカ・イギリス・ソ連でしたが、ヨーロッパの戦後処理における対立がきっかけで、この頃から第二次世界大戦後の世界の支配を巡って駆け引きが行われ始めたのです。

ソ連の対応

ヤルタ会談に望むチャーチル首相(最前列左)、ルーズヴェルト大統領(中央)、スターリン書記長(右)

ポツダム会談より前、1945年2月4〜11日に行われたヤルタ会談で、ソ連の対日参戦が決定します。もともとアメリカは太平洋戦争開戦直後よりソ連の参戦を求めていました。ソ連が日本に宣戦布告することで、南進を推し進める日本の脅威になると踏んでいたからです。ヤルタ秘密協定では、ソ連はドイツ降伏後3ヶ月以内に対日参戦することになっていました。

日ソ中立条約調印書(1941年)

しかしこの内容は秘密協定で、日本は知る由もありませんでした。そのため、日本は水面下で進めていた終戦工作において、日ソ中立条約を締結していた関係上、ソ連が終戦の仲立ちをしてくれるものと考えて動いていたのです。

関東軍の主力は南方戦線へ向かっており、満州に残る関東軍は戦闘能力も低く、ソ連侵攻に苦戦した。

結局、ソ連は8月8日、日本に宣戦布告を行い、満州そして南樺太へに攻め込みました。ソ連はポツダム会談に出席していながら、ポツダム宣言に署名していませんでしたが、対日戦争開始後の8月8日に宣言へ名を連ねるのです。

ポツダム宣言受諾までの経緯

ポツダム宣言発表

ポツダム宣言に名を連ねた、中華民国政府主席である蒋介石

ポツダム宣言は1945(昭和20)年7月26日に、アメリカ、イギリス、中国の名前で発表されました。日本は、アメリカが日本の国民向けに繰り返し流したラジオ放送を通じて宣言を知り、対応を協議し始めます。

日本での対応協議

ポツダム宣言を受信した大和田通信所

日本政府は7月27日にポツダム宣言について検討を始めます。そして、すぐに受諾するのは難しいものの、はっきりと拒否してしまうと終戦に持ち込む機会を逸してしまうため、明確な回答をしない方針を打ち出しました。

新聞での公表

ポツダム宣言に対し、政府はコメントしなかったものの、新聞各社は「戦争完遂」を訴えた。

7月28日、政府は新聞でポツダム宣言を公開しました。日本に対する威嚇と受け取りかねない内容については削除したものの、コメントは付けずに日本語訳文だけを公表します。

首相談話「宣言を黙殺する」

太平洋戦争終結へ導いた第42代内閣総理大臣・鈴木貫太郎

軍部は鈴木貫太郎首相に対し、ポツダム宣言を無視して戦争継続をするというコメントを発表するべきだと迫ります。鈴木はこれに応じ、7月30日の新聞で、ポツダム宣言を黙殺すること、そして戦争完遂の方針を明らかにしました。

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