広島に原子爆弾投下
8月6日、広島に原子爆弾が投下されます。これがきっかけとなり、もともと水面下で動いていた終戦工作が表面化することになります。原爆投下の報告を受けた昭和天皇も、終戦へ向けた努力をするよう話したとされています。
ソ連の対日参戦
日本はソ連と1941年4月に、有効期間が5年間という日ソ中立条約を交わしていました。そのため日本は、ソ連を介した講和締結の道を探っていました。しかし8月8日、ソ連は日本に宣戦布告します。連合国の要請を受けて、日本に終戦を促すためのソ連参戦でした。8月9日、ソ連は満州の国境を超えて日本軍への攻撃を開始するのです。
最高戦争指導会議
8月9日、最高戦争指導会議が開かれます。鈴木貫太郎首相、東郷茂徳外務大臣、阿南惟幾(これちか)陸軍大臣、米内光政海軍大臣、梅津美治郎陸軍参謀総長、豊田副武(そえむ)海軍軍令部総長が参加する、国家の最高意思決定機関です。
ソ連の参戦と広島への原爆投下により、話の流れはポツダム宣言受諾の方向に傾いていました。しかし宣言を受け入れるにあたり、どのような条件をつけるかで議論になります。天皇制維持という「国体護持」だけを貫くか、「戦争犯罪の自主裁判」「日本軍の自主撤収」「保障占領の拒否」の3条件も加えるかで意見が割れました。
長崎に原子爆弾投下
最高戦争指導会議中の8月9日午前中、長崎に原子爆弾が投下されました。これがポツダム宣言を受諾する方針への決定打となります。
第一の聖断
最高戦争指導会議、それに続く閣議でも結論が出なかったため、8月9日深夜に御前会議が開かれました。日付が変わった午前2時ごろ、昭和天皇の第一の聖断が下されます。国体護持の条件のみをつけた、ポツダム宣言受諾が昭和天皇の判断でした。8月10日、中立国であったスイスとスウェーデンを経由し、日本のポツダム宣言受諾の回答が連合国へ伝えられました。
バーンズ回答
連合国側の回答は8月11日に出されました。アメリカ国務長官バーンズが回答したために「バーンズ回答」と呼ばれます。天皇制存続を認めるかどうかがアメリカでも議論になりましたが、早く戦争を終わらせることが優先され、ポツダム宣言の範囲内で日本に回答することになります。
日本側で問題になったのは次の2点でした。国体護持という条件だけは守り抜きたい日本としては、それがはっきりしない以下の2つの文章について議論になったのです。
From the moment of surrender the authority of the Emperor and the Japanese Government to rule the state shall be subject to the Supreme Commander of the Allied powers who will take such steps as he deems proper to effectuate the surrender terms.
降伏ノ時ヨリ 天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置ヲ執ル聯合国最高司令官ノ制限ノ下ニ置カルルモノトス
The ultimate form of government of Japan shall, in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.
日本国ノ最終的ノ政治形態ハ「ポツダム」宣言ニ遵ヒ日本国国民ノ自由ニ表明スル意思ニ依リ決定セラルベキモノトス
米英ソ中各政府の名における8月11日付アメリカ政府の日本国政府に対する回答
Reply to Japan’s First Surrender Offer (バーンズ回答英語原文)
第二の聖断
意見がまとまらなかったため、8月14日午前中に再度御前会議が開かれます。ここで昭和天皇は第二の聖断を下しました。条件受諾の通知を連合国側へ出すように述べたのです。14日23時、スイス・スウェーデン経由でポツダム宣言受諾を知らせ、終戦に至りました。