ポツダム宣言とは?内容や受託が遅れた理由まで分かりやすく解説【全文付き】

ポツダム宣言についての疑問

ポツダム宣言の誤訳が原爆投下を招いた?

長崎に原子爆弾が投下された様子

7月30日、鈴木貫太郎首相は声明で、ポツダム宣言を「黙殺」すると発表しました。「黙殺」とは、ポツダム宣言を公にはするものの、公式な言及をしないという意味です。受諾はするものの、今後その付帯条件について交渉するつもりで、政府は「黙殺」としたわけです。

同盟通信社が本社を置いていた市政会館は、東京都選定歴史的建造物に指定されている。

この「黙殺」を、同盟通信社(現在の共同通信社と時事通信社)は英語で「ignore」と訳します。ロイターとAP通信は「reject」と訳しました。「ignore」は同義語として「disregard」、つまり「無視する」という意味です。「reject」は「拒否」という意味ですので、どちらにせよ日本政府が意図した「黙殺」とは違う解釈をされた可能性があります。

もともとアメリカは、日本がポツダム宣言をすぐに受け入れるとは思っていませんでした。原子爆弾の投下が、日本のポツダム宣言受け入れへと繋がると考えていたのです。そのため、日本のポツダム宣言への回答を聞く前から、アメリカには原爆投下の予定があったと考えられています。つまり、この「黙殺」という言葉と広島に原子爆弾が投下されたこととは直接的な関わりはないと思われます。

原爆投下を報道する8月7日のニューヨークタイムズ

しかし、ポツダム宣言には、受諾しない場合には日本を完全に壊滅させるという内容が出ていました。「黙殺」という日本の表現が、日本を壊滅させる、つまり原子爆弾を落とす方向へとアメリカを推し進めてしまったことは確かでしょう。

ポツダム宣言の受諾が遅れた理由は?

ポツダム宣言受諾に関する交渉記録

「国体護持」が確約されていなかった

スウェーデン王室を通じて終戦工作をしていた⼩野寺信ストックホルム駐在陸軍武官も、国体護持を降伏の条件としていた。

ポツダム宣言の内容は、無条件降伏に近いものでした。鈴木貫太郎首相をはじめ、終戦に持ち込みたいと考えていた政府の人々も、少なくとも天皇制の存続という「国体護持」だけは保証された状態で戦争を終結させるべきと考えていました。ポツダム宣言からは、国体護持についての確証が持てなかったために、すぐさま受諾に踏み切れなかったのです。

講和を模索していた

広田弘毅元首相は、東郷外相の意を受けてソ連を通じた講和をまとめようと画策していた。

ソ連を仲介にした講和の道を探っていたことも、ポツダム宣言をすぐに受諾できなかった要因の一つです。ポツダム宣言が出された時点で、連合国側にとってソ連の対日参戦は既定路線でしたが、日本はまだ知る由もない状況でした。正確には、ソ連が参戦するという情報はあったようですが、途中で握りつぶされていたようです。

日本としては、降伏ではなく講和という方法が取れるならそれに越したことはないわけで、講和の道を残すためにも、ポツダム宣言はすぐに受諾する決断はできなかったということです。

戦争継続を望む声があった

阿南惟幾は表向き戦争継続を訴えていたが、それは陸軍の暴発を抑えるためであり、本心は戦争終結を願っていた。

陸軍をはじめ、戦争を完遂するべきだと主張する声が少なくなかった情勢では、終戦を意味するポツダム宣言受諾という判断を下すのは難しいことでした。

実際、ポツダム宣言への対応を協議した最高戦争指導会議で、梅津美治郎陸軍参謀総長と阿南惟幾陸軍大臣、豊田副武海軍軍令部総長が、ポツダム宣言受諾どころか、非難する声明を出すべきだと鈴木貫太郎首相に訴えていました。結局広島と長崎への原爆投下、そして昭和天皇の聖断により、ポツダム宣言受諾の判断が下されることになるのです。

ポツダム宣言を受諾しなかったらどうなっていた?

8月14日に出された終戦の詔書

ポツダム宣言を受諾していなければ、戦争が継続されていました。容易に予測できるのは、原子爆弾の3発目の投下、ソ連との戦闘継続、そして本土決戦です。

3発目の原子爆弾が投下

広島に投下された原子爆弾リトルボーイ

アメリカでは3発目の原子爆弾も準備していました。8月17日または18日以降の天気の良い日に投下できるように用意をしていたという資料もあります。投下候補地として東京、札幌、函館、小樽、横須賀、大阪、及び名古屋が挙げられていましたが、日本に心理的圧力をかけるという意味からも、東京に原爆を落とすべきという意見が出ていました。

ソ連との戦闘継続

ソ連軍の南樺太侵攻を示した地図

満州や南樺太・千島列島の戦闘は、さらに激化したものと考えられます。ただ、これらの地域では実際に、ポツダム宣言受諾後も戦闘が続きました。なぜならソ連軍は「日本軍が停戦する様子がないから」という理由で攻め続けていたからです。これによって在留邦人の犠牲者が増え、日本に帰国できないまま中国に留まった「中国残留日本人」問題が生まれました。

中国残留孤児と養親の墓

樺太においても「樺太等残留邦人」問題は現在も続いています。また、スターリンは、南樺太を拠点に北海道へ攻め込むつもりだったため、北海道がソ連に割譲されていた可能性は否定できません。

本土決戦

九州南部への上陸作戦(オリンピック作戦)

連合国軍はダウンフォール作戦という、日本の本土決戦を計画していました。1945年11月に九州から上陸することや毒ガスの散布などといった具体的な計画であり、もしこれが実施されていたら日本は壊滅状態に陥っていたと考えられます。

ポツダム宣言に関するまとめ

ポツダム宣言は、世界的な視野で見ても歴史的事実として重要です。第二次世界大戦が終わったというだけではなく、ポツダム宣言が出されたポツダム会談では、戦後に大きな問題となるアメリカとソ連による冷たい戦争の端緒が見られました。ポツダム宣言を理解すると、その後の歴史もわかりやすくなります。

また、ポツダム宣言は現在進行形の歴史にも繋がっています。現在もロシアとの大きな課題である北方領土問題にも関わっているのです。そのため、今を生きる私たちにも無関係ではない歴史として、この記事をきっかけにポツダム宣言をぜひ一度読んで考えて欲しいと思います。

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