側室:西郷局(於愛の方、宝台院)
西郷局は母が三河西郷氏の血筋を引いています。従兄弟に当たる西郷義勝の後妻に入り2人の子供に恵まれましたが、死別して家康の側室となりました。1579年には家康の三男となる徳川秀忠を出産します。1580年に四男松平忠吉を産みますが、1589年に亡くなりました。家康の信頼が厚い、誠実で穏和な人柄であったと言われています。
息子の秀忠が江戸幕府二代将軍、孫の家光が三代将軍、曾孫の興子内親王が第109代明正(めいしょう)天皇に即位したこともあり、1628年には正一位に叙せられました。
側室:阿茶局(雲光院)
阿茶局の父は甲斐武田家に仕えた飯田直政と言われています。1552〜1555年ごろに生まれ、今川家臣の神尾忠重に嫁ぎ、神尾守世、守繁という2人の息子に恵まれますが、1577年に夫と死に別れ、1579年に家康の側室となりました。家康との間に子供はいませんでしたが、一度懐妊するも小牧・長久手の戦いの陣中で流産したという説もあります。
阿茶局には政治的才覚があり、家康はその才を高く評価していました。1614年の大坂冬の陣では和議の使者を務めます。1620年には秀忠の娘和子入内の際には母代わりとして上洛します。1623年に和子出産の際にも世話をし、のちの明正天皇出生にも立ち会いました。これにより後水尾天皇から従一位を授けられました。1637年に亡くなっています。
側室:下山殿(長慶院、妙真院、都摩、於津摩、秋山夫人)
下山殿は1564年、甲斐武田氏の家臣秋山虎康の娘として生まれたと言われていますが、武田信玄の娘という説もあります。武田二十四将の一人である穴山信君(梅雪)の養女となったことから、信君の本拠地「下山」の地名より下山殿と呼ばれるようになったようです。
穴山信君の弟である信邦に嫁ぐも、1582年に武田家が滅亡したために家康の側室となり、1583年に家康の五男となる武田信吉を出産します。なお、家康の三女振姫も下山殿の子供という説もあります。信吉が治めていた下総国小金で、1591年11月21日に他界しました。
側室:お松(法光院)
家康の側室で、出自や生没年も不明です。1582年に松平民部を出産したようですが、家康が厄年であった年の出生ということで、家康の次男である結城秀康の養子となりました。
松平民部は大坂の陣でも活躍しましたが、1616年に亡くなっています。
側室:茶阿局(お久、朝覚院)
遠江金谷村の山田氏の娘として生まれた茶阿局は、鋳物職人のもとに嫁ぎ、娘を出産します。しかし茶阿局に横恋慕した代官により夫が殺されてしまいます。そこで茶阿局は鷹狩に来ていた家康に仇討ちを直訴したところ、家康の目にとまり、地元の有力な武士河村家の養女となって家康の側室に迎え入れられることになりました。
1592年に家康の六男となる松平忠輝を、1594年に七男松千代を出産しました。一説には四女松姫の生母とも言われています。美しいだけではなく聡明な女性で、家康は深く信頼していたようです。1621年に亡くなっています。
側室:お竹(良雲院)
お竹は甲斐武田家の旧臣である市川昌永の娘と言われていますが、武田信玄や穴山信君(梅雪)、秋山虎康の娘といった説もあります。1580年に家康の四女となる振姫を出産したようです。1637年4月7日に他界しました。
側室:お仙(泰栄院)
お仙は、甲斐武田氏に仕えた信濃国の宮崎泰景の娘です。天正年間(1573〜1591年)に家康の側室となったようですが、子供は生まれていません。1619年に駿府城で亡くなりました。
側室:お牟須(阿牟須、正栄院)
甲斐武田家に仕えた三井吉正の娘として生まれたお牟須は、武田家が滅亡した1582年に家康の側室となりました。1592年、家康が朝鮮出兵のために肥前国名護屋城へ詰めた際に同行し、名護屋で出産しましたが、難産だったため母子ともに命を落としました。
側室:お亀(相応院)
お亀は1573年、京都の石清水八幡宮の祠官であった志水清康の娘として生まれました。竹腰定右衛門正時に嫁ぎ、息子を出産しますが、夫と死別してしまい、豊臣秀吉に仕えていた石川光元の側室となります。その後実家に帰され、奥勤めののちに家康の側室となりました。
1595年に家康の八男となる仙千代を、1600年には九男義直を出産します。家康他界後は剃髪して相応院と称し、初代尾張徳川家当主となった義直のいる名古屋で過ごしました。1642年に息を引き取っています。