徳川家康の妻(正室・側室)はどんな人?20人以上いた嫁を一覧で紹介

側室:西郷局(於愛の方、宝台院)

西郷局は家康の正室であった築山殿の侍女に毒殺されたという噂もある。
出典:wikipedia

西郷局は母が三河西郷氏の血筋を引いています。従兄弟に当たる西郷義勝の後妻に入り2人の子供に恵まれましたが、死別して家康の側室となりました。1579年には家康の三男となる徳川秀忠を出産します。1580年に四男松平忠吉を産みますが、1589年に亡くなりました。家康の信頼が厚い、誠実で穏和な人柄であったと言われています。

明正天皇は後水尾天皇を父に、徳川秀忠の娘である和子を母に持ち、徳川将軍家を外戚とした女帝。
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息子の秀忠が江戸幕府二代将軍、孫の家光が三代将軍、曾孫の興子内親王が第109代明正(めいしょう)天皇に即位したこともあり、1628年には正一位に叙せられました。

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側室:阿茶局(雲光院)

数多くいる側室の中でも、阿茶局は徳川幕府のために数々の政治的役割を果たした珍しいタイプの女性だった。
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阿茶局の父は甲斐武田家に仕えた飯田直政と言われています。1552〜1555年ごろに生まれ、今川家臣の神尾忠重に嫁ぎ、神尾守世、守繁という2人の息子に恵まれますが、1577年に夫と死に別れ、1579年に家康の側室となりました。家康との間に子供はいませんでしたが、一度懐妊するも小牧・長久手の戦いの陣中で流産したという説もあります。

阿茶局の菩提寺である雲光院(東京都江東区三好)
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阿茶局には政治的才覚があり、家康はその才を高く評価していました。1614年の大坂冬の陣では和議の使者を務めます。1620年には秀忠の娘和子入内の際には母代わりとして上洛します。1623年に和子出産の際にも世話をし、のちの明正天皇出生にも立ち会いました。これにより後水尾天皇から従一位を授けられました。1637年に亡くなっています。

側室:下山殿(長慶院、妙真院、都摩、於津摩、秋山夫人)

穴山信君は武田御一門であり、その養女であった下山殿は家康の側室の中でもかなり身分が高い女性であった。
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下山殿は1564年、甲斐武田氏の家臣秋山虎康の娘として生まれたと言われていますが、武田信玄の娘という説もあります。武田二十四将の一人である穴山信君(梅雪)の養女となったことから、信君の本拠地「下山」の地名より下山殿と呼ばれるようになったようです。

下山殿の息子・信吉の甥にあたる水戸光圀が、千葉県松戸市の本土寺に下山殿の墓を建立した。
出典:秋山夫人の墓

穴山信君の弟である信邦に嫁ぐも、1582年に武田家が滅亡したために家康の側室となり、1583年に家康の五男となる武田信吉を出産します。なお、家康の三女振姫も下山殿の子供という説もあります。信吉が治めていた下総国小金で、1591年11月21日に他界しました。

側室:お松(法光院)

家康の側室で、出自や生没年も不明です。1582年に松平民部を出産したようですが、家康が厄年であった年の出生ということで、家康の次男である結城秀康の養子となりました。

大坂の陣では、松平民部は甥の松平忠直(結城秀康の長男)のもとで参戦している。
出典:大坂夏の陣図屏風

松平民部は大坂の陣でも活躍しましたが、1616年に亡くなっています。

側室:茶阿局(お久、朝覚院)

茶阿局の墓所がある宗慶寺(東京都文京区小石川)
出典:茶阿局墓碑

遠江金谷村の山田氏の娘として生まれた茶阿局は、鋳物職人のもとに嫁ぎ、娘を出産します。しかし茶阿局に横恋慕した代官により夫が殺されてしまいます。そこで茶阿局は鷹狩に来ていた家康に仇討ちを直訴したところ、家康の目にとまり、地元の有力な武士河村家の養女となって家康の側室に迎え入れられることになりました。

松平忠輝が父である家康に嫌われていた理由の一つに、母である茶阿局の身分が低かったからという説もある。
出典:wikipedia

1592年に家康の六男となる松平忠輝を、1594年に七男松千代を出産しました。一説には四女松姫の生母とも言われています。美しいだけではなく聡明な女性で、家康は深く信頼していたようです。1621年に亡くなっています。

側室:お竹(良雲院)

お竹の墓所がある西福寺(東京都台東区蔵前)
出典:西福寺

お竹は甲斐武田家の旧臣である市川昌永の娘と言われていますが、武田信玄や穴山信君(梅雪)、秋山虎康の娘といった説もあります。1580年に家康の四女となる振姫を出産したようです。1637年4月7日に他界しました。

側室:お仙(泰栄院)

お仙の供養塔は、阿茶局が開基となった上徳寺にある(京都府京都市富小路五条下る本塩竈町)
出典:Wikipedia

お仙は、甲斐武田氏に仕えた信濃国の宮崎泰景の娘です。天正年間(1573〜1591年)に家康の側室となったようですが、子供は生まれていません。1619年に駿府城で亡くなりました。

側室:お牟須(阿牟須、正栄院)

朝鮮出兵の拠点となった名護屋城は、大阪城に次ぐ規模の城だった。
出典:佐賀県立 名護屋城博物館

甲斐武田家に仕えた三井吉正の娘として生まれたお牟須は、武田家が滅亡した1582年に家康の側室となりました。1592年、家康が朝鮮出兵のために肥前国名護屋城へ詰めた際に同行し、名護屋で出産しましたが、難産だったため母子ともに命を落としました。

側室:お亀(相応院)

お亀は生涯で3人の男性に嫁ぎ、4人の息子に恵まれた。
出典:wikipedia

お亀は1573年、京都の石清水八幡宮の祠官であった志水清康の娘として生まれました。竹腰定右衛門正時に嫁ぎ、息子を出産しますが、夫と死別してしまい、豊臣秀吉に仕えていた石川光元の側室となります。その後実家に帰され、奥勤めののちに家康の側室となりました。

日本100名城に指定されている、尾張藩の居城・名古屋城
出典:名古屋城公式ウェブサイト

1595年に家康の八男となる仙千代を、1600年には九男義直を出産します。家康他界後は剃髪して相応院と称し、初代尾張徳川家当主となった義直のいる名古屋で過ごしました。1642年に息を引き取っています。

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