側室:お久(普照院)
お久は、後北条氏の家臣である間宮康俊の娘です。1595年に家康の四女である松姫を出産したと言われています。松姫は1598年に早世してしまいました。お久は1617年3月24日に駿府城で亡くなっています。
側室:お梶(英勝院)
お梶の出自ははっきりしていないものの、江戸城を築城したことで知られる太田道灌の血筋をひく太田康資の娘、もしくは後北条氏の家臣である遠山直景の娘とも言われています。とても聡明な女性で家康の寵愛を受け、1607年に家康最後の子供となる五女の市姫を出産しました。
市姫が早世したのち、家康はお梶の才能を活かそうと十一男頼房や松平忠昌(結城秀康の次男)、振姫(督姫の娘)の養母としました。家康亡き後は剃髪して英勝院を名乗り、1642年に亡くなりました。
側室:お万(於万、蔭山殿、養珠院)
お万は勝浦正木氏当主の頼忠の娘として1577年に生まれました。母親が北条家の家臣であった蔭山氏と再婚したため、蔭山氏広の義理の娘となります。1593年、家康に見染められて側室となり、1602年には家康の十男となる頼宣を、1603年には十一男頼房を出産しました。蔭山家が日蓮宗を信仰していたこともあり、お万も熱心な日蓮信者でした。
2011年、お万の息子である頼宣が初代となった紀州徳川家にゆかりの深い海禅寺敷地内の多宝塔の下にあった石室から、お万の遺髪が発見されました。家康の死後、剃髪したときのものと考えられています。
側室:お奈津(お夏、清雲院)
1581年、お奈津は伊勢北畠家に仕えていた長谷川藤直の娘として生まれます。1597年、17歳の時に家康の側室となりました。家康は当時56歳でしたが、大坂冬の陣にも同行させるほどお奈津を寵愛していました。子供は生まれませんでしたが、お奈津は家康の最期まで側で仕えました。
家康の死後は落飾して清雲院と称し、1660年まで長生きします。その頃に天下を治めていた将軍は、家康の曾孫にあたる4代徳川家綱となっていました。
側室:お梅(蓮華院)
1586年、豊臣秀吉の従兄弟である青木一矩の娘としてお梅は生まれました。家康の祖母である華陽院の姪でもあったお梅は、その縁で家康の側室となりました。お梅は当時15歳、家康は59歳でした。
のちに下野国小山藩主であった家康の側近・本多正純に下げ渡され継室となります。正純が宇都宮釣天井事件によって失脚すると、お梅は梅香尼となりました。1647年10月8日に伊勢で亡くなりました。
お六(養儼院)
1597年、今川氏の家臣だった黒田直陣の娘としてお六は生まれました。もとはお梶の侍女でしたが、家康が側室とします。家康は1614年の大坂冬の陣にも連れて行きますが、子供はいませんでした。家康の死後は出家して養儼院となります。
しかしまだ歳も若いことから、秀忠の命で榊原康政の養女としたのち、下野国喜連川藩の喜連川義親に嫁がせました。しかし1625年5月4日、家康の法事のため日光東照宮に参拝した際に突然亡くなりました。
富子(信寿院)
富子については山田氏の娘であること、家康の側室であったこと以外はわかっていません。信寿院という法号で、池上本門寺に墓があります。
徳川家康と関係があった?と言われる女性たち
豊臣秀吉の正室である高台院(ねね、おね、北政所)
豊臣秀吉の正室である高台院は、秀吉の死後は徳川家に深く関わるようになります。それは家康と男女の仲であったという意味ではなく、高度な政治的関係です。
高台院はそれまでの豊臣家での実績に加え、家康より先に従一位を賜った身分でもあり、政治的にも家康が一目置くべき存在でした。また、秀忠は幼い頃に豊臣家での人質生活を送っており、高台院への恩義の情も深く、秀忠は上洛のたびに高台院へ挨拶に訪れていた記録もあります。
家康は、高台院が秀吉の菩提を弔うために高台寺を建立する際にも手を貸しました。秀吉の妻であった高台院にとって、豊臣家の滅亡は辛い結果でしたが、激動の戦国時代を生き抜いた一人の女性としての北政所は、徳川家に手厚い庇護を受け、表面的には穏やかな晩年であったことは救いかもしれません。
徳川家光の乳母である春日局
第3代将軍徳川家光は、2代秀忠と正室お江との子供ではなく、家光の乳母を務めた春日局が家康との間に産んだ子供だったのではないか?という説もあります。
家光が春日局の子供であるとする資料はいくつか見つかっています。春日局の実家であり嫁ぎ先であった稲葉家に残る資料には、家光は秀忠と春日局との子供と書かれています。
家光が生まれたのは1604年。家康の最後の子供である市姫が生まれたのは1607年。春日局は1579年生まれですので、家光が家康の子供であった可能性も否定はできませんが、一般的には家光は2代将軍秀忠とお江との子供と言われています。
徳川家康妻に関するまとめ
徳川家康の妻たちを見ていくと、家康の子孫を残すこと以外にも、大名との調停を行う人、才覚を買われて別の側室が産んだ子供の養育を任せられた人など、今でいうキャリアウーマン的な役割を果たした人もいたことがわかります。
徳川家康は優秀な部下たちを上手く使ったやり手のリーダーと言われていますが、それは女性たちに対しても言えるようです。家康が艶福家とも評されるのは、出産だけではない、女性たちの役割を見抜いてくれる男性だったからなのかもしれません。家康を取り巻く女性たちについて考えてみると、家康の新たな魅力が見えてきて面白いですね。