徳川家康には妻が20人以上もいました。家康が初めて結婚したのが15歳前後。最後の側室はなんと家康が60代を過ぎてから迎えています。これだけ聞くと、家康はただの女好きでは?と思うかもしれませんが、実は徳川家康が天下をとることが出来た理由の一つが、この家康を取り巻く女性たちの存在でした。
家康はなぜこんなにたくさんの女性を側室に迎えたのでしょうか?彼女たちは家康の出世のためにどのような役割を果たしたのでしょうか?この記事では家康の20人の妻たちを一人ずつ紹介していきます。最後まで読めば、今まで見えてこなかった徳川家康の意外な魅力に気づくはずです。
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この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
徳川家康の妻を家系図とともに紹介
妻は20人以上
徳川家康には正室と継室が一人ずつ、そして側室が20人近くいたことがわかっています。側室の数については諸説ありますが、この記事では資料の裏付けがある20人の女性たちについて紹介します。
子供は16人
徳川家康には、二代将軍となる秀忠や御三家を創設する義直、頼宣、頼房以外にも多くの子供に恵まれました。家康にたくさんの子供がいたからこそ、江戸幕府は家康の血筋が途絶えることなく、15代まで将軍を出すことができたといえます。その意味では、家康の子供を産んだ女性たちが江戸幕府に果たした役割は、とても大きいものがありました。
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徳川家康の妻20人を紹介
正室:築山殿(築山御前、駿河御前)
築山殿は駿河今川氏の一族である関口親永(ちかなが)を父に持ち、母は今川義元の妹もしくは伯母との説があります。また、井伊家の血を引いていると書かれた史料もあります。築山殿は1557年、徳川家康が今川家に人質になっていた時に嫁ぎました。結婚前は瀬名姫という名前でしたが、家康の地元である岡崎市の「築山」という地名から「築山殿」と呼ばれるようになります。
1559年に家康の長男である松平信康を、1560年に長女の亀姫を出産しました。しかし1579年に武田勝頼に内通したと織田信長から疑われ、家康の家臣により殺害されました。なお、築山殿は悪女だったとも言われますが、その根拠となるのは、後世書かれた資料に「嫉妬深い」と表現されているからのようです。
継室:朝日姫(旭姫、駿河御前、南明院)
1543年に豊臣秀吉の妹として生まれ、嫁に出ています。しかし秀吉が家康を手懐けるために強制的に離縁させられ、1586年に家康の継室となりました。43歳での輿入れであり、明らかに強引な政略結婚でした。子供はおらず、1590年に亡くなっています。
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側室:小督局(長勝院、おこちゃ、於万の方)
1548年生まれの小督局は、三河国知鯉鮒明神の社人である永見貞英の娘と言われています。築山殿の奥女中でしたが、家康の目にとまって最初の側室となり、1574年に家康の次男となる結城秀康を出産しました。
この時小督局は双子を産んだという説もあります。当時、双子は忌み嫌われたため、もう一人の子供は小督局の実家である永見家に引き取られ、知立神社の神主として永見貞愛(さだちか)を名乗ったとされています。1607年に秀康が亡くなったのち、1619年に秀康が治めていた越前の北ノ庄にて息を引き取りました。
側室:西郡局(蓮葉院)
西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国西郡(蒲郡市)にあった上ノ郷城の城主である今川家臣鵜殿長忠の娘と言われています。1565年(1575年説もあり)に家康の次女となる督姫を出産しました。1606年6月19日に伏見城で亡くなっています。
督姫は家康の北条氏との和睦の条件として北条氏直に嫁ぎましたが、夫と死別してしまいました。その後池田輝政の継室となり、1615年に亡くなっています。