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徳川家康の妻(正室・側室)はどんな人?20人以上いた嫁を一覧で紹介

徳川家康には妻が20人以上もいました。家康が初めて結婚したのが15歳前後。最後の側室はなんと家康が60代を過ぎてから迎えています。これだけ聞くと、家康はただの女好きでは?と思うかもしれませんが、実は徳川家康が天下をとることが出来た理由の一つが、この家康を取り巻く女性たちの存在でした。

江戸幕府を開いた徳川家康(1543〜1616年)
出典:wikipedia

家康はなぜこんなにたくさんの女性を側室に迎えたのでしょうか?彼女たちは家康の出世のためにどのような役割を果たしたのでしょうか?この記事では家康の20人の妻たちを一人ずつ紹介していきます。最後まで読めば、今まで見えてこなかった徳川家康の意外な魅力に気づくはずです。

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徳川家康の妻を家系図とともに紹介

徳川家康とその妻を中心とした家系図
出典:戦国ヒストリー

妻は20人以上

徳川家康の伝記「武徳編年集成」には妻についての記述もある。
出典:愛知県図書館 郷土資料展

徳川家康には正室と継室が一人ずつ、そして側室が20人近くいたことがわかっています。側室の数については諸説ありますが、この記事では資料の裏付けがある20人の女性たちについて紹介します。

子供は16人

徳川将軍家の家系図
出典:wikipedia

徳川家康には、二代将軍となる秀忠や御三家を創設する義直、頼宣、頼房以外にも多くの子供に恵まれました。家康にたくさんの子供がいたからこそ、江戸幕府は家康の血筋が途絶えることなく、15代まで将軍を出すことができたといえます。その意味では、家康の子供を産んだ女性たちが江戸幕府に果たした役割は、とても大きいものがありました。

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徳川家康の妻20人を紹介

江戸時代の婚礼の様子
出典:江戸ガイド

正室:築山殿(築山御前、駿河御前)

夫に見捨てられた悲劇の女性としても知られる築山殿
出典:和樂web 日本文化の入り口マガジン

築山殿は駿河今川氏の一族である関口親永(ちかなが)を父に持ち、母は今川義元の妹もしくは伯母との説があります。また、井伊家の血を引いていると書かれた史料もあります。築山殿は1557年、徳川家康が今川家に人質になっていた時に嫁ぎました。結婚前は瀬名姫という名前でしたが、家康の地元である岡崎市の「築山」という地名から「築山殿」と呼ばれるようになります。

母である築山殿とともに命を落とした松平信康(1559〜1579年)
出典:wikipedia

1559年に家康の長男である松平信康を、1560年に長女の亀姫を出産しました。しかし1579年に武田勝頼に内通したと織田信長から疑われ、家康の家臣により殺害されました。なお、築山殿は悪女だったとも言われますが、その根拠となるのは、後世書かれた資料に「嫉妬深い」と表現されているからのようです。

継室:朝日姫(旭姫、駿河御前、南明院)

東福寺南明院に葬られた朝日姫
出典:wikipedia

1543年に豊臣秀吉の妹として生まれ、嫁に出ています。しかし秀吉が家康を手懐けるために強制的に離縁させられ、1586年に家康の継室となりました。43歳での輿入れであり、明らかに強引な政略結婚でした。子供はおらず、1590年に亡くなっています。

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側室:小督局(長勝院、おこちゃ、於万の方)

小督局が生まれたとされる場所にある石碑(愛知県知立市総持寺)
出典:wikipedia

1548年生まれの小督局は、三河国知鯉鮒明神の社人である永見貞英の娘と言われています。築山殿の奥女中でしたが、家康の目にとまって最初の側室となり、1574年に家康の次男となる結城秀康を出産しました。

家康の次男に生まれながらも秀吉の養子となり、波乱万丈の一生を送った結城秀康
出典:wikipedia

この時小督局は双子を産んだという説もあります。当時、双子は忌み嫌われたため、もう一人の子供は小督局の実家である永見家に引き取られ、知立神社の神主として永見貞愛(さだちか)を名乗ったとされています。1607年に秀康が亡くなったのち、1619年に秀康が治めていた越前の北ノ庄にて息を引き取りました。

側室:西郡局(蓮葉院)

娘の督姫が西郡局の菩提を弔うために開創した青蓮寺(兵庫県宍粟市山崎町)
出典:青蓮寺

西郡局(にしのこおりのつぼね)は、三河国西郡(蒲郡市)にあった上ノ郷城の城主である今川家臣鵜殿長忠の娘と言われています。1565年(1575年説もあり)に家康の次女となる督姫を出産しました。1606年6月19日に伏見城で亡くなっています。

督姫が嫁いだことで、池田家は繁栄したと言われている。
出典:wikipedia

督姫は家康の北条氏との和睦の条件として北条氏直に嫁ぎましたが、夫と死別してしまいました。その後池田輝政の継室となり、1615年に亡くなっています。

側室:西郷局(於愛の方、宝台院)

西郷局は家康の正室であった築山殿の侍女に毒殺されたという噂もある。
出典:wikipedia

西郷局は母が三河西郷氏の血筋を引いています。従兄弟に当たる西郷義勝の後妻に入り2人の子供に恵まれましたが、死別して家康の側室となりました。1579年には家康の三男となる徳川秀忠を出産します。1580年に四男松平忠吉を産みますが、1589年に亡くなりました。家康の信頼が厚い、誠実で穏和な人柄であったと言われています。

明正天皇は後水尾天皇を父に、徳川秀忠の娘である和子を母に持ち、徳川将軍家を外戚とした女帝。
出典:wikipedia

息子の秀忠が江戸幕府二代将軍、孫の家光が三代将軍、曾孫の興子内親王が第109代明正(めいしょう)天皇に即位したこともあり、1628年には正一位に叙せられました。

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側室:阿茶局(雲光院)

数多くいる側室の中でも、阿茶局は徳川幕府のために数々の政治的役割を果たした珍しいタイプの女性だった。
出典:wikipedia

阿茶局の父は甲斐武田家に仕えた飯田直政と言われています。1552〜1555年ごろに生まれ、今川家臣の神尾忠重に嫁ぎ、神尾守世、守繁という2人の息子に恵まれますが、1577年に夫と死に別れ、1579年に家康の側室となりました。家康との間に子供はいませんでしたが、一度懐妊するも小牧・長久手の戦いの陣中で流産したという説もあります。

阿茶局の菩提寺である雲光院(東京都江東区三好)
出典:wikipedia

阿茶局には政治的才覚があり、家康はその才を高く評価していました。1614年の大坂冬の陣では和議の使者を務めます。1620年には秀忠の娘和子入内の際には母代わりとして上洛します。1623年に和子出産の際にも世話をし、のちの明正天皇出生にも立ち会いました。これにより後水尾天皇から従一位を授けられました。1637年に亡くなっています。

側室:下山殿(長慶院、妙真院、都摩、於津摩、秋山夫人)

穴山信君は武田御一門であり、その養女であった下山殿は家康の側室の中でもかなり身分が高い女性であった。
出典:wikipedia

下山殿は1564年、甲斐武田氏の家臣秋山虎康の娘として生まれたと言われていますが、武田信玄の娘という説もあります。武田二十四将の一人である穴山信君(梅雪)の養女となったことから、信君の本拠地「下山」の地名より下山殿と呼ばれるようになったようです。

下山殿の息子・信吉の甥にあたる水戸光圀が、千葉県松戸市の本土寺に下山殿の墓を建立した。
出典:秋山夫人の墓

穴山信君の弟である信邦に嫁ぐも、1582年に武田家が滅亡したために家康の側室となり、1583年に家康の五男となる武田信吉を出産します。なお、家康の三女振姫も下山殿の子供という説もあります。信吉が治めていた下総国小金で、1591年11月21日に他界しました。

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