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源義経とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や死因、子孫も紹介】

源義経は、平安時代末期から鎌倉時代最初期の源平合戦期に活躍した武将です。その生涯の英雄性と悲劇性は、現代でも多くの創作の題材として活用されているため、日本有数の偉人として多くの人が名を知っている人物でしょう。

源義経とされる肖像画

しかしその一方で、幼い頃の逸話や、兄の挙兵に応じての参戦、弁慶との出会いや戦いの日々、そして悲劇的な最期と非常にエピソードが多く、その全貌を理解できている人もかなり少ないのではないでしょうか?

というわけでこの記事では、そんな短いながら以上に濃い生涯を駆け抜けた源義経について、なるべく丁寧に解説していければと思います。

源義経とはどんな人物か

名前源義経
幼名牛若、遮那王
誕生日1159年(月日不明)
没日1189年6月15日(享年30歳)
生地京都(正確な場所は不明)
没地奥州、平泉、衣川館
配偶者郷御前(正妻)、
静御前(妾)、蕨姫(妾)
父母源義朝(実父)、
常盤御前(実母)、
一条長成(養父)
兄弟義平、朝長、頼朝、義門、希義、
範頼、阿野全成、義円、坊門姫、
女子廊御方?、
一条能成、一条長成の娘
埋葬場所不明
(鎌倉のどこかであると思われる)

源義経の生涯をハイライト

当時の源氏の頭領だった源義朝の九男として、後の義経は生を受けた。

源義朝(みなもとのよしとも)と常盤御前の九男として生まれた牛若丸こと義経は、父の敗死によって大和国へ逃亡。そこで波乱の生涯の幕を開けることになります。

そして11歳の頃に母が再婚し、幼い義経は鞍馬寺に預けられることになりました。しかし彼は僧になることを嫌がって、最終的に寺を出奔。奥州平泉の藤原氏のもとに身を寄せることになります。

壇ノ浦の戦いは、源平の合戦の最終決戦として有名。

元服に伴い”義経”と名を変えた彼は、兄である頼朝の挙兵を知って兄の下へと参陣。兄の下で一ノ谷や壇之浦などの戦いで活躍し、源平合戦の勝敗の決定打となりました。

しかし、頼朝とは違い政治に長けていなかった義経は次第に暴走。頼朝に無断で冠位を受けたことや、平家との合戦の際の度重なる独断専行とそれに伴う失敗、横暴な振る舞いが目立ちだし、次第に彼は兄や鎌倉の武士団と不仲になっていってしまいます。

兄である頼朝との不和こそが、義経の悲劇の原因となった。

そして義経が頼朝から離れて独自の勢力を持つ形で動き出すと、いよいよ頼朝は義経の討伐を決定。義経にとっては頼みの綱でもあった京都にも反義経勢力が目立ち始めたことから、彼は奥州へと逃避行をすることになってしまいます。

しかし頼朝による追撃の手は緩まず、義経は追い詰められてしまいます。そんな絶体絶命の中、彼は頼朝派に転身した藤原泰衡による襲撃を受け、自害してこの世を去ることになったのでした。

天才的な軍略と圧倒的な武芸を兼ね備えていた

一ノ谷の戦いを描いたとされる絵。一般に言う鵯越の逆落としのシーン。

悲劇的な生涯という意味でも有名な義経ですが、彼を紹介するには「圧倒的な武芸と軍略」という観点も外すことができません。

軍略家としての義経を表すのに特に有名なのは、一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし”のエピソード。敵軍の陣を奇襲するために、馬に乗ったまま断崖絶壁を駆け下りるという命知らずを極めた作戦ですが、義経は見事この作戦を成功させ、戦いの勝敗を決定づける活躍を見せました。

壇ノ浦の戦いでも、優れた戦術眼を見せつけた。

他にも壇ノ浦の戦いでは、船頭に狙いを定めて攻撃を仕掛けることで平氏の大軍を混乱に陥れ、屋島の戦いでは、野山に火を放ってその中から奇襲するという作戦を立案。これによっても見事に平氏軍を敗走させています。

弁慶との立ち合いも、最早語る必要もないほど有名。

また、武芸者としての義経についてはもはや語る必要もない程に有名です。乱暴者の荒法師として有名だった武蔵坊弁慶を打ち破って家来にしたなどのエピソードは、枚挙に暇がありません。

ともかく優れた軍略と腕の冴えを持ち合わせていた源義経という人物。しかしその才覚こそが、後に義経の首を絞める一因になったのかもしれません。

意外と人間的だった性格

一般に”英雄”として語られる義経だが、性格的にはどちらかというと…?

後世の創作によって「清廉な美男子」というイメージがついている義経ですが、記録から見る義経の人間像は割と人間臭く、あまり性格が良いタイプではなかったと言えそうです。

「強硬的な態度で自分の意見を押し通す」、「気に入らない仕事をバックレようとする」、「頼朝に叱られて震えあがり、すぐに頼朝の意向に従う」など、その人間性を示す記録は意外と多く残っており、そもそも兄との不仲も義経の横暴に一因があるなど、あまり英雄らしくない義経像は多くの記録から読み取れます。

反義経派だった貴族の九条兼実だが、義経の都落ちに際してはその行動を絶賛している。

しかし一方で「世話になった京都の人々に迷惑を掛けたくない」と、文書だけで挨拶を済ませて静かに京都から西の方へ落ち延びるなど、義理人情に篤い部分を示す記録も残されており、義経と言う人間の二面性を物語っています。

戦場に立てば英雄でありながら、実際の性格はどちらかと言えば悪めな部類だった義経。イメージからすると若干残念なところですが、それもまた義経の人間らしい魅力の一つだと言えるのかもしれません。

イケメンだったともそうでないとも言われるが…

滝沢秀明氏が演じた大河ドラマの義経。一般的なイメージを見事に踏襲している。

現代に描かれる義経の共通項と言えば、ほぼ間違いなく「イケメン」という要素があげられるでしょう。2005年の大河ドラマ『義経』では滝沢秀明が。2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の十三人』では菅田将暉が演じることが決定しているなど、そのイメージはほぼ全ての作品で踏襲されています。

しかし記録に残る義経の容姿は、要約するに「色白で小柄。出っ歯なためすぐに分かる」といったもの。いわゆるイケメンという評価につながる記載はほとんど見られず、残念ながら”義経イケメン説”は後世の創作にまつわる部分が大きいようです。

現代のゲームに描かれる義経。流石に美化され過ぎな気もするが、大体の作品でイケメンとして描かれている。

しかし義経イケメン説は、実は江戸時代ごろから脈々と受け継がれる風説でもあります。根拠は薄く、むしろ創作の題材として美化されて行った末の説ではありますが、昔から変わらない人々の本質を表す、中々面白いエピソードなのではないでしょうか。

死の原因は兄との不仲?武人だったゆえの末路

義経を最終的には討伐するまでに至った頼朝。だがその理由は…?

義経の死因が、兄との不仲による逃避行の末の自害であることは、生涯ハイライトでも記載した通りです。しかし頼朝と義経の間には、一概に「不仲」という言葉では表現しきれない数々の確執が存在していました。

このトピックでは、彼ら兄弟がなぜ殺し合うような関係性になってしまったのか、その原因と目されることをいくつか紹介していきます。

源氏の未来への理想像が違っていた

源氏一門の代表的な家紋。「一門を守る」ということへの理想像の違いが、兄弟を引き裂いてしまった。

頼朝は政治に長けた自分が源氏一門を導き、長く一門を繁栄させようと考えていました。そのために彼はある種の人間不信のようになっていたことも、記録から読み取れます。

しかし一方で、義経は「あくまで兄弟は対等であるべき」と考えていました。そのため彼は、頼朝に表だって敬意を払うことはなく、あくまで兄弟として対等に接し続けていました。

”一門の長い繁栄”を重視したと見える頼朝と、”兄弟の絆”を重視したと見える義経。どちらが正しいと一概には言えませんが、兄弟の理想像の差が悲劇を生み出したと言えそうです。

平家討伐における失敗と独断専行

鵯越の逆落としに代表される奇襲作戦は、鮮やかではあるが部下からは疎まれていたとか。

優れた軍略家だった義経は、主に奇襲攻撃で戦果を上げ続けてきました。しかし奇襲は首級の数が大事な当時の戦では、旨味が少ない手段でもあったのです。

そう言う理由もあり、義経の奇襲作戦は「義経一人だけが『勝ち戦の大将』として評価を受けるもの」と、次第に白眼視を受けることに。こうした奇襲攻撃が独断による作戦だったことが多かったのも、そんな評価を後押ししてしまいました。

皇室にとって重要だった三種の神器。取り返す必要があった草薙剣を、義経は取り返すことができなかった。

そしてさらに、義経は壇ノ浦の戦いで致命的なミスを犯します。平家方の安徳天皇が持ち出した三種の神器の一つである草薙剣(くさなぎのつるぎ)。源氏は自分達の正当性を示すため、これを何としても奪還しなければなりませんでした。

しかし義経が独断によって平氏を追い詰めすぎてしまい、結果として草薙剣は安徳天皇と共に海底へ。これによって源氏は朝廷との間に禍根を残すことになってしまい、そのミスを犯した義経もまた、頼朝から不信を抱かれることになってしまったのです。

勝手に冠位を受けて、頼朝の戦後構想を乱した

義経に官職を授けた後白河院。これが決定打となり、頼朝は義経討伐を決定してしまう。

源氏一門の長い繁栄を望んでいた頼朝派、一門の序列に乱れが出ないように、配下の武士たちが勝手に冠位や身分を受けることを禁じていました。

しかし義経はそんな兄の言いつけを軽く見て、後白河法皇に言われるがままに冠位や身分を受けてしまいます。元々並外れた武勇によって公家たちから評価を受けていた義経を危険視していた頼朝でしたが、この一件でそれは確信に。

そしてさらに悪いことに、頼朝の家臣である梶原景時(かじわらのかげとき)が、頼朝に義経の横暴を訴えたことで、頼朝の心は確定的に。その結果として義経は朝敵として、兄によって討伐されることになってしまったのでした。

義経に子孫はいるのか

義経の愛妾として有名な静御前。義経は結婚も子供の存在も記録されている人物だが…?

義経の子孫は「いない」とするのが現代における通説です。

義経の子は記録によれば男児一人と女児二人とされています。少なくとも義経が自害する直前に、妻とともに四歳の女児を殺害したとされており、最低でも一人はその時に死亡。しかし残りの二人は歴史の舞台には名を表しておらず、その足跡は分からずじまいとなっています。

俗説では、義経の遺児である男児が、下野国の御家人である中村朝貞であるという伝承がありますが、これの真偽は一切不明です。

俗説や創作されたエピソードの多い義経の生涯は、その最期も大きな謎に満ちています。とりわけ彼の遺児である二人の子がどうなったのか。それはもしかすると日本史の常識を揺るがす発見にも繋がっているのかもしれません。

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