源義経とはどんな人?生涯・年表まとめ【伝説や死因、子孫も紹介】

源義経は、平安時代末期から鎌倉時代最初期の源平合戦期に活躍した武将です。その生涯の英雄性と悲劇性は、現代でも多くの創作の題材として活用されているため、日本有数の偉人として多くの人が名を知っている人物でしょう。

源義経とされる肖像画

しかしその一方で、幼い頃の逸話や、兄の挙兵に応じての参戦、弁慶との出会いや戦いの日々、そして悲劇的な最期と非常にエピソードが多く、その全貌を理解できている人もかなり少ないのではないでしょうか?

というわけでこの記事では、そんな短いながら以上に濃い生涯を駆け抜けた源義経について、なるべく丁寧に解説していければと思います。

この記事を書いた人

Webライター

ミズウミ

フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。

源義経とはどんな人物か

名前源義経
幼名牛若、遮那王
誕生日1159年(月日不明)
没日1189年6月15日(享年30歳)
生地京都(正確な場所は不明)
没地奥州、平泉、衣川館
配偶者郷御前(正妻)、
静御前(妾)、蕨姫(妾)
父母源義朝(実父)、
常盤御前(実母)、
一条長成(養父)
兄弟義平、朝長、頼朝、義門、希義、
範頼、阿野全成、義円、坊門姫、
女子廊御方?、
一条能成、一条長成の娘
埋葬場所不明
(鎌倉のどこかであると思われる)

源義経の生涯をハイライト

当時の源氏の頭領だった源義朝の九男として、後の義経は生を受けた。

源義朝(みなもとのよしとも)と常盤御前の九男として生まれた牛若丸こと義経は、父の敗死によって大和国へ逃亡。そこで波乱の生涯の幕を開けることになります。

そして11歳の頃に母が再婚し、幼い義経は鞍馬寺に預けられることになりました。しかし彼は僧になることを嫌がって、最終的に寺を出奔。奥州平泉の藤原氏のもとに身を寄せることになります。

壇ノ浦の戦いは、源平の合戦の最終決戦として有名。

元服に伴い”義経”と名を変えた彼は、兄である頼朝の挙兵を知って兄の下へと参陣。兄の下で一ノ谷や壇之浦などの戦いで活躍し、源平合戦の勝敗の決定打となりました。

しかし、頼朝とは違い政治に長けていなかった義経は次第に暴走。頼朝に無断で冠位を受けたことや、平家との合戦の際の度重なる独断専行とそれに伴う失敗、横暴な振る舞いが目立ちだし、次第に彼は兄や鎌倉の武士団と不仲になっていってしまいます。

兄である頼朝との不和こそが、義経の悲劇の原因となった。

そして義経が頼朝から離れて独自の勢力を持つ形で動き出すと、いよいよ頼朝は義経の討伐を決定。義経にとっては頼みの綱でもあった京都にも反義経勢力が目立ち始めたことから、彼は奥州へと逃避行をすることになってしまいます。

しかし頼朝による追撃の手は緩まず、義経は追い詰められてしまいます。そんな絶体絶命の中、彼は頼朝派に転身した藤原泰衡による襲撃を受け、自害してこの世を去ることになったのでした。

天才的な軍略と圧倒的な武芸を兼ね備えていた

一ノ谷の戦いを描いたとされる絵。一般に言う鵯越の逆落としのシーン。

悲劇的な生涯という意味でも有名な義経ですが、彼を紹介するには「圧倒的な武芸と軍略」という観点も外すことができません。

軍略家としての義経を表すのに特に有名なのは、一ノ谷の戦いにおける鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし”のエピソード。敵軍の陣を奇襲するために、馬に乗ったまま断崖絶壁を駆け下りるという命知らずを極めた作戦ですが、義経は見事この作戦を成功させ、戦いの勝敗を決定づける活躍を見せました。

壇ノ浦の戦いでも、優れた戦術眼を見せつけた。

他にも壇ノ浦の戦いでは、船頭に狙いを定めて攻撃を仕掛けることで平氏の大軍を混乱に陥れ、屋島の戦いでは、野山に火を放ってその中から奇襲するという作戦を立案。これによっても見事に平氏軍を敗走させています。

弁慶との立ち合いも、最早語る必要もないほど有名。

また、武芸者としての義経についてはもはや語る必要もない程に有名です。乱暴者の荒法師として有名だった武蔵坊弁慶を打ち破って家来にしたなどのエピソードは、枚挙に暇がありません。

ともかく優れた軍略と腕の冴えを持ち合わせていた源義経という人物。しかしその才覚こそが、後に義経の首を絞める一因になったのかもしれません。

意外と人間的だった性格

一般に”英雄”として語られる義経だが、性格的にはどちらかというと…?

後世の創作によって「清廉な美男子」というイメージがついている義経ですが、記録から見る義経の人間像は割と人間臭く、あまり性格が良いタイプではなかったと言えそうです。

「強硬的な態度で自分の意見を押し通す」、「気に入らない仕事をバックレようとする」、「頼朝に叱られて震えあがり、すぐに頼朝の意向に従う」など、その人間性を示す記録は意外と多く残っており、そもそも兄との不仲も義経の横暴に一因があるなど、あまり英雄らしくない義経像は多くの記録から読み取れます。

反義経派だった貴族の九条兼実だが、義経の都落ちに際してはその行動を絶賛している。

しかし一方で「世話になった京都の人々に迷惑を掛けたくない」と、文書だけで挨拶を済ませて静かに京都から西の方へ落ち延びるなど、義理人情に篤い部分を示す記録も残されており、義経と言う人間の二面性を物語っています。

戦場に立てば英雄でありながら、実際の性格はどちらかと言えば悪めな部類だった義経。イメージからすると若干残念なところですが、それもまた義経の人間らしい魅力の一つだと言えるのかもしれません。

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