性善説をめぐる勘違い
誕生から2000年以上の歴史がある性善説の考え方。実は、性善説をめぐってはいくつかの勘違いがあるのです。無意識に「性善説」という言葉を多用したがために起きた勘違いでしょうが、何をどう勘違いしているのでしょうか。ここでは代表的な、性善説にまつわる勘違いを3つご紹介します。
人はずっと「善」であるとは限らない
性善説を盲目的に信じている人は、人は生まれてから死ぬまでずっと「善」のままだと思っている人もいます。しかし、この解釈は間違い。人がずっと「善」である保証はどこにもありません。
これは、性善説を成立させた孟子の時代から言われ続けていることです。「努力をして善の状態を保たなければならない」と、最初の提唱者である孟子が言っているためこれは間違いありません。裏を返せば、人間は放置しておけば「善」ではなくなることもあるのです。何もしないままに「善」であるという考え方は、性善説の考えとしては間違いとなります。
必ずしも正解ではない
「性善説と性悪説のどちらが正解か」は、よくある議論です。人の本性に関する問題は、孟子の提唱から2000年以上たった現代でもよく論争の種になる話題でしょう。どちらが本当なのかに決着がつかないと、はっきりしなくて気持ちが悪いのも分かります。
しかし、性善説も性悪説も、どちらも正解ではありません。もっと言えば、両説の基本となった性白紙説も無善無悪説も正解ではありません。所詮は人が頭で考えること。この人間の本性という、哲学の分野でも難しい領域の問題に決着をつけることは、非常に難しいことなのです。
ビジネスにおける性善説は意味が違う
「孫子兵法」や「老荘思想」など、古代中国で成立したこれらの思想は現代のビジネス現場では「東洋哲学」と位置づけられて重要視されています。実は、性善説もそのうちのひとつなのですが、ビジネスにおける意味と本来の意味は多少違ってきてしまっているのです。
「人は生まれながらに善であり、努力を積むことで維持できる」孟子の考えとは裏腹に、ビジネスにおける性善説は「相手はいい人だと思って接する態度」という解釈に変わっています。ここでいう「相手」とは顧客や取引先全員を指しています。つまり、ビジネスの性善説はこちら側の態度の話であって、相手の人間性を決定づけるものではないということなのです。
しかし、これらは完全な間違いとは言い切れません。朱子や王陽明が従来の考え方に手を加えたように、性善説をはじめとする思想は時代とともに移り変わって当然。現代における性善説の解釈としては一概に間違いとも言い切れないのです。
性善説のメリットとデメリット
性善説は「人の本性は生まれながらに善である」という考え方です。これを信じるか信じないか、どのぐらい信じるのかは個人差があって当然です。しかし、あまりに信じすぎるがあまり盲目的になってしまうと、性善説のメリットはもちろん、デメリットも強く感じてしまいます。
ここでは性善説を信じることに対するメリットとデメリットについて説明していきます。