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硫黄島の戦いをわかりやすく解説!目的やアメリカ・海外の反応も紹介

「硫黄島の戦いってどんな戦いだったのかな?」
「“硫黄島からの手紙”を見てどんな戦闘か詳しく知りたくなった!」

硫黄島の戦いは、太平洋戦争末期に小笠原諸島の硫黄島での日本軍と米軍の戦闘です。太平洋戦争の戦闘の中でも、日米共に多くの犠牲者を出し非常に激しい戦闘となりました。日本の死傷者よりもアメリカ軍の死傷者が上回った稀有な戦いでもあり、アメリカは敬意を評して硫黄島の戦いを「勝利なき戦い」と現在も呼んでいます。

硫黄島の戦いで星条旗を掲げるアメリカ兵
出典:Wikipedia

このように日米に注目されている硫黄島の戦いですが、実際どのような戦闘が行われたのか知らない人がほとんどだと思います。この記事では以前硫黄島の戦いに興味を持ち、戦争を知る世代に聞いたりして調べた筆者が、少しでも戦闘の激しさと戦争の惨さを伝えれたらと考えています。

※この記事では事実を正確に伝えるために、残酷な表現や写真が登場します。苦手な方は次のトピックを読む等の自衛をお願いいたします。

硫黄島の戦いとは?

硫黄島の太平洋上の位置がわかる地図
出典:Wikipedia
交戦勢力大日本帝国アメリカ合衆国
年月日1945年2月19日から3月26日まで
(ただし終戦まで抵抗戦力あり)
指揮官
栗林忠道

リチャード・K
・ターナー
戦力22786名約111,000
死傷者数戦死17,845名
~18,375名
(軍属含む)
捕虜1,022名
戦死6,821名
戦傷19,217名
結果アメリカ軍の勝利、硫黄島陥落する

硫黄島の戦いは激戦となり、戦傷者が日本軍よりも米軍が上回る稀有な戦いでした。両軍共に多くの被害者を出した“硫黄島の戦い”の詳しい状況や、目的・戦闘などを見ていきます。

太平洋戦争での日米の戦いだった

硫黄島の衛星写真
出典:Wikipedia

硫黄島の戦いは太平洋戦争で、1945年の2月から3月にかけて硫黄島を舞台に日本軍とアメリカ軍の戦いです。上陸するアメリカ軍を日本軍が迎え撃つことになったこの戦いは、第二次世界大戦の太平洋戦線屈指の激戦地となりました。

硫黄島の戦いが始まる頃は、日本の敗戦色が強まっている時期でした。1944年には、日本軍がグアムの戦いで米軍に敗退。その後グアム島を制圧したアメリカは、次の日本領土のターゲットとしたのが、戦いの舞台となる“硫黄島”でした。

摺鉢山、パイプ山などと呼ばれていた
出典:Wikipedia

硫黄島は東京の南約1080㎞、グアムの北約1130kmに位置している火山島です。島の表面が硫黄の蓄積物で覆われているからこの名前が付けられています。直径は北東から南西にかけて8km未満、幅は北部で4km、南部で800mという小さな島です。最高点は島の南部にある標高169mの摺鉢山でした。

硫黄島は火山灰のために保水性がなく、飲用水は塩辛い井戸水か雨水に頼ったといいます。飲用水も満足にない、そういった過酷な場所で日本軍は戦わざるえなかったのです。

硫黄島の戦いの目的は?

B29の本土空襲の様子
出典:Wikipedia

米軍が硫黄島を占領目的にした目的は以下の理由などからでした。

  • 被弾による損傷、故障、燃料不足によりマリアナまで帰着できない
  • 爆撃機の中間着陸場の確保
  • 爆撃機を護衛する戦闘機の基地の確保日本軍航空機の攻撃基地の撃滅
  • 本軍の早期警報システムの破壊硫黄島を避けることによる爆撃機の航法上のロスの解消

Wikipedia

要するに本土爆撃のための、中間地点の確保のためでした。硫黄島を占領することにより、硫黄島を利用することにより、戦闘機の長距離飛行によって起こるリスクを軽減することを目的としたのです。

両軍の戦力は?

硫黄島で投入された97式中戦車
出典:Wikipedia

両軍の戦力ですが、まず日本軍は大本営直轄部隊として小笠原師団が配備され、約23000人が米軍を迎え撃ちました。指揮官は栗林忠道陸軍中将に率いられ、歩兵隊・戦車隊・新兵器のロケット砲を持つ部隊など、かなりの総力を硫黄島に集結させています。

対してアメリカ軍はリッチモンド・K・ターナー大将を指揮官として、航空母艦16隻・艦載機1200機・戦艦8隻・巡洋艦15隻・駆逐艦77隻、人員にして11万人という大軍隊でした。

栗林中将が配布した「敢闘ノ誓」
出典:Wikipedia

日本軍は1944年の海戦で主力戦艦を多く失い、制空権と制海権はアメリカに握られていました。そのため勝ち目がないことは日本側も重々承知であり、上陸作戦で出来るだけ多くの犠牲者をアメリカ軍に与えるのを目的としました。

そして栗林中将は部下に「敢闘ノ誓」を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底させています。内容は、

  • 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
  • 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
  • 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
  • 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン
  • 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
  • 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン

Wikipedia
硫黄島で日本軍の徹底したゲリラ戦が行われた
出典:ナショジオスペシャル

この中でも特に「ゲリラ戦」を記載することにより、長期抵抗を徹底させ、また日本軍の定番攻撃だった「萬歳突撃(玉砕覚悟で敵兵に突撃する戦法)」を厳禁しました。これは攻撃主体だった日本軍にとって大幅に戦術が変換され、結果アメリカを苦戦させることとなったのです。

硫黄島の戦いの勝者は?

星条旗を摺鉢山頂上に掲げるアメリカ兵
出典:Wikipedia

硫黄島の戦いは2月19日から始まり、3月21日に大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。当初アメリカ側が想定した占領必要日は「5日」でした。しかし予定を大幅に上回る日本軍の善戦に苦戦を強いられ、占領に一か月以上の時間を要したのです。

硫黄島の戦いにおける主要人物

硫黄島の戦いでの主要人物を紹介

硫黄島の戦いにおける主要人物を紹介します。硫黄島の戦いを語る上で知っておきたい人物です。

栗林忠道

栗林忠道大将
出典:Wikipedia

硫黄島の戦いでの指揮官を務めました。硫黄島では全長18kmに及ぶ坑道を通しての地下陣地を作り、部下には自決・萬歳突撃を禁止しています。あくまで陣地防衛・ゲリラ戦を徹底してたのです。2月19日にアメリカが上陸作戦を開始しますが今までと違う日本軍の攻撃に、アメリカ兵は取材で、

「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭が切れるやつだ」

と証言しています。圧倒的な劣勢の中粘り強く戦いますが3月16日に「玉砕」を意味する決別電報を大本営に打電。翌17日付で戦死と認定されました。戦死と認定された後も、硫黄島で栗林は粘り強く応戦していましたが、3月26日に兵隊400名を連れて米軍が占領している第一・第二飛行場に突入。栗林は右大腿部に重傷を負い、その場で自決したといわれています。享年53歳でした。

西竹一

西陸軍大佐
出典:Wikipedia

薩摩藩出身の華族・西家出身の軍人で、オリンピックの馬術障害飛越競技の金メダリストでもありました。硫黄島の戦いでは戦車第26連隊長として戦い戦死しています。

硫黄島の戦いでは栗林大将と確執があったと伝わっており、発端は戦車隊が貴重な水で戦車を洗車していたために栗林が咎め厳罰を要求しますが、西がそれを撥ねつけた為だそうです。現在の私たちの目から見ると、栗林大将の発言は筋が通っているように感じますが、西を知る人曰く「良くも悪くも貴族のお坊ちゃんだった」と語っています。

明るい性格でアメリカ人にも友人がいた
出典:Wikipedia

硫黄島では21日に敵の掃射を受けその場で戦死したか、その後に副官と拳銃自殺したとも、22日に火炎放射器で片目をやられながらも数人の部下らと突撃して亡くなったともいわれます。

明るい性格で非常に社交的な人物で、アメリカのチャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスなど非常に交遊関係の広い人でした。そのため1965年に西の旧知人のサイ・バートレット陸軍大佐が東京を尋ね、靖国神社で西の慰霊祭を行っています。

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