硫黄島の戦いをわかりやすく解説!目的やアメリカ・海外の反応も紹介

両軍の戦力は?

硫黄島で投入された97式中戦車
出典:Wikipedia

両軍の戦力ですが、まず日本軍は大本営直轄部隊として小笠原師団が配備され、約23000人が米軍を迎え撃ちました。指揮官は栗林忠道陸軍中将に率いられ、歩兵隊・戦車隊・新兵器のロケット砲を持つ部隊など、かなりの総力を硫黄島に集結させています。

対してアメリカ軍はリッチモンド・K・ターナー大将を指揮官として、航空母艦16隻・艦載機1200機・戦艦8隻・巡洋艦15隻・駆逐艦77隻、人員にして11万人という大軍隊でした。

栗林中将が配布した「敢闘ノ誓」
出典:Wikipedia

日本軍は1944年の海戦で主力戦艦を多く失い、制空権と制海権はアメリカに握られていました。そのため勝ち目がないことは日本側も重々承知であり、上陸作戦で出来るだけ多くの犠牲者をアメリカ軍に与えるのを目的としました。

そして栗林中将は部下に「敢闘ノ誓」を硫黄島守備隊全員に配布し、戦闘方針を徹底させています。内容は、

  • 我等ハ全力ヲ奮テ本島ヲ守リ抜カン
  • 我等ハ爆薬ヲ抱イテ敵戦車ニブツカリ之ヲ粉砕セン
  • 我等ハ挺進敵中ニ斬込ミ敵ヲ皆殺シニセン
  • 我等ハ一發必中ノ射撃ニ依ツテ敵ヲ打仆サン
  • 我等ハ敵十人ヲ斃サザレバ死ストモ死セズ
  • 我等ハ最後ノ一人トナルモ「ゲリラ」ニ依ツテ敵ヲ悩マサン
Wikipedia
硫黄島で日本軍の徹底したゲリラ戦が行われた
出典:ナショジオスペシャル

この中でも特に「ゲリラ戦」を記載することにより、長期抵抗を徹底させ、また日本軍の定番攻撃だった「萬歳突撃(玉砕覚悟で敵兵に突撃する戦法)」を厳禁しました。これは攻撃主体だった日本軍にとって大幅に戦術が変換され、結果アメリカを苦戦させることとなったのです。

硫黄島の戦いの勝者は?

星条旗を摺鉢山頂上に掲げるアメリカ兵
出典:Wikipedia

硫黄島の戦いは2月19日から始まり、3月21日に大本営は硫黄島守備隊の玉砕を発表しました。当初アメリカ側が想定した占領必要日は「5日」でした。しかし予定を大幅に上回る日本軍の善戦に苦戦を強いられ、占領に一か月以上の時間を要したのです。

硫黄島の戦いにおける主要人物

硫黄島の戦いでの主要人物を紹介

硫黄島の戦いにおける主要人物を紹介します。硫黄島の戦いを語る上で知っておきたい人物です。

栗林忠道

栗林忠道大将
出典:Wikipedia

硫黄島の戦いでの指揮官を務めました。硫黄島では全長18kmに及ぶ坑道を通しての地下陣地を作り、部下には自決・萬歳突撃を禁止しています。あくまで陣地防衛・ゲリラ戦を徹底してたのです。2月19日にアメリカが上陸作戦を開始しますが今までと違う日本軍の攻撃に、アメリカ兵は取材で、

「誰かは知らんがこの戦いを指揮している日本の将軍は頭が切れるやつだ」

と証言しています。圧倒的な劣勢の中粘り強く戦いますが3月16日に「玉砕」を意味する決別電報を大本営に打電。翌17日付で戦死と認定されました。戦死と認定された後も、硫黄島で栗林は粘り強く応戦していましたが、3月26日に兵隊400名を連れて米軍が占領している第一・第二飛行場に突入。栗林は右大腿部に重傷を負い、その場で自決したといわれています。享年53歳でした。

西竹一

西陸軍大佐
出典:Wikipedia

薩摩藩出身の華族・西家出身の軍人で、オリンピックの馬術障害飛越競技の金メダリストでもありました。硫黄島の戦いでは戦車第26連隊長として戦い戦死しています。

硫黄島の戦いでは栗林大将と確執があったと伝わっており、発端は戦車隊が貴重な水で戦車を洗車していたために栗林が咎め厳罰を要求しますが、西がそれを撥ねつけた為だそうです。現在の私たちの目から見ると、栗林大将の発言は筋が通っているように感じますが、西を知る人曰く「良くも悪くも貴族のお坊ちゃんだった」と語っています。

明るい性格でアメリカ人にも友人がいた
出典:Wikipedia

硫黄島では21日に敵の掃射を受けその場で戦死したか、その後に副官と拳銃自殺したとも、22日に火炎放射器で片目をやられながらも数人の部下らと突撃して亡くなったともいわれます。

明るい性格で非常に社交的な人物で、アメリカのチャーリー・チャップリンやダグラス・フェアバンクスなど非常に交遊関係の広い人でした。そのため1965年に西の旧知人のサイ・バートレット陸軍大佐が東京を尋ね、靖国神社で西の慰霊祭を行っています。

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