硫黄島の戦いにおけるアメリカの反応
硫黄島の戦いは、アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名というアメリカが最も人的被害を出した戦闘の一つであり、アメリカに衝撃を与えました。アメリカは上陸当日に501名という戦死者を出し、1日で戦死した数は海兵隊創立以来現在まで最大といわれています。そのため摺鉢山に星条旗が掲げられた日は、「アメリカ海兵隊記念日」に制定されています。
1985年には日米合同の慰霊祭が開催され、敵味方関係なく互いに歩み寄り涙したそうです。その時の式典の記念碑には、
「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」
と英語と日本語で綴られています。アメリカ軍の指揮官チェスター・ニミッツ海軍大将は「硫黄島で戦った人の間で、稀有な勇気は共通の美徳だった」と著書で語っています。ただし生き残った米兵でこのような証言を残している人がいます。
「戦争に勝者も敗者もありません。私のやった殺し合いは、何もかも馬鹿げています。終わった後、日本軍の洞窟に入ってみました。まさに戦争は地獄です。本当に恐ろしいことです」
戦争とは地獄であり、美徳という美しい言葉は似つかわしくない現状があったのです。アメリカでも硫黄島の戦いの悲惨さは今も伝えられているそうです。
硫黄島の戦いを時系列で紹介
硫黄島の戦いを時系列に紹介します。多くの犠牲を出した戦闘の流れを、簡単にあらすじをまとめています。
1945年2月16日 – アメリカ軍の上陸
1945年2月16日、アメリカ軍は攻撃を開始しました。敢えて反撃をあまりせず米軍を上陸させて、上陸した時点で日本軍一斉攻撃を開始。砂浜で足を取られて米軍の上陸軍25%があっという間に死傷。足場が悪いために塹壕を掘ることもできず、19日だけでアメリカ軍は戦死501名・戦傷死47名・負傷者1,755名に上っています。
米軍被害が拡大した理由の一つに、米軍が想定していた「萬歳突撃」を待ち構えていましたが、予想と裏腹に日本兵が実施したのは少人数の手榴弾攻撃や夜間攻撃で貯蔵物を炎上させるといった攻撃だったためといいます。
1945年2月20日 – 摺鉢山の戦い
2月20日には、米軍は砲撃があまり効果がないために、火炎放射器と手榴弾で日本兵が隠れる坑道を攻撃しながら、摺鉢山に迫っていきました。2月22日に硫黄島でのアメリカ軍の被害がアメリカ本国に報告されると、「毒ガスの使用」が検討される程の衝撃を与えたといわれています。しかし毒ガスは国際連盟で禁止されていたために、使用に至っていません。
米軍は摺鉢山に向けて前進を続け、坑道に向けて火炎放射器を浴びせ、火炎が届かないところには白リン弾を投げ込んで煙で出入り口を確かめ、入り口をブルドーザーで塞ぎ穴を開けてガソリンを流し放火する攻撃に出ていました。こういった攻撃を日本軍は「馬乗り攻撃」と呼んでいたそうです。
アメリカは遂に23日に摺鉢山の頂上に星条旗を立てることに成功。しかし翌日の24日には日章旗が立っていたといいます。そのため再度ロケット砲で攻撃、また星条旗が掲げられますが25日には再度日章旗が掲げられていました。夜中に日本兵が変えに行ったのだろうと推察されていますが、もう一度星条旗に変えるともう変わることはなかったといいます。
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