在原業平の代表歌
「ちはやぶる 神世もき聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」
百人一首に採られた歌で、昔恋愛関係にあった藤原高子(二条后)の屏風に書いた歌といわれています。訳は「不思議な事が起こった神代でも聞いたことがない。竜田川の水面に紅葉が覆い、流れる水を紅に染め上げてしまうなんて」といった心でしょうか。紅葉の赤が際立つ在原業平らしい作品です。
「唐衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」
古典の授業で習うことも多い、伊勢物語の「東下り」で出てくる歌です。「カキツバタ」を頭文字に使って歌を詠んでくれといわれて詠んだ歌といわれています。訳は「何度も袖を通して慣れ親しんだ妻、そんな妻と離れて遥々遠くに来た旅をしみじみとやるせなく感じる」です。とっさの作歌でもカキツバタを頭に入れ、「着る」と「来る」を掛ける歌の技量に驚かされる作品です。
「名に負はば いざ言問わむ 都鳥 我が思う人や ありやなしやと」
東下りで詠まれた有名な歌です。隅田川を渡っている時に鳥の名を聞くと「都鳥」という名を聞き詠んだといいます。訳は「都と名の付くお前なら知っているだろうから聞いてみよう。我が恋しく思う人は、今も都で元気にしているかどうか」であり、これを聞いていた都から共に下っていた人は涙で乾飯が濡れたといいます。
「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」
在原業平の作品でも有名なものの1つです。訳は「もしもこの世に桜の花が無かったならばもっとのどかに過ごせただろうに。桜はもう散ってしまったのだろうか、もう少し咲いてくれたらとやきもきせずに済むのだから」というものです。日本人の桜に対する心は今も昔も変わらないことがわかる美しい歌です。
「桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがうがに」
関白藤原基経の40歳のお祝いの席で詠んだ歌といわれています。訳は「桜の花よ、どうか散ってあたりを曇らせておくれ。老いという道が曇ってわからなくなってしまうほどに」です。桜の散る美しい様と、老いという皆が通る道が儚くも際立つ一首です。
在原業平の功績
功績1「六歌仙の一人に選ばれるほどの和歌の達人だったこと」
在原業平の功績の一つはやはり六歌仙の1人に選ばれる程の和歌の巧みさが挙げられるでしょう。ただし六歌仙は必ずしも古今集に選出した和歌の数や、知名度で選ばれたわけでは無いという説が有力です。しかし在原業平は古今集に30首も採用されており、間違いなく古今集を彩る歌人の一人といって過言ではありません。
後世でも「六歌仙」は影響を与え、6人を持って和歌の名人という代名詞となりました。「六人党」「新六歌仙」など新たに六歌仙を模した選出がされています。和歌を志す人に憧れを抱かれたのは在原業平の功績といえるのではないでしょうか。
功績2「百人一首に選出されたこと」
在原業平は百人一首にも選出されています。藤原定家が選出した百人一首は元々小倉山荘で選ばれた和歌ですが、後に歌がるたとして使用されるようになり、現在も親しまれています。
百人一首は広く庶民にまで貴族が愛好していた和歌が知られるきっかけとなりました。百人一首に選ばれることによって在原業平の歌も沢山の人に詠まれ、日本人に和歌を現在も伝えていることは功績の一つといえるでしょう。
功績3「職業歌人として花形だったこと」
在原業平は、宮中の儀式での歌詠みを多く受け持っています。宮中儀式で詠んだ歌は多く残っていますが、その中の一つにはかつての恋人だった清和天皇の后、藤原高子の大原野神社への参詣に近衛として付き従った時に詠んだ歌が残っています。
「大原や 小塩の山も 今日こそは 神代の事も 思ひ出づらめ」
大原の小潮の山に鎮座する神も、今日は遠い子孫である后の参拝を受けて神代の時代を懐かしく感じていることでしょう、と歌を差し上げています。その他にも儀式の歌を受け持ち、華やかな歌を詠み、儀式を雅に盛り上げる役割を果たしていたのです。
すごくわかりやすい記事でした!
夏休みの自由研究に使わせていただきます!