在原業平にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「伊勢の斎宮と密通するという最大の禁忌を犯した!?」
在原業平は、伊勢斎宮と密通し斎宮が身ごもるという前代未聞の事件を犯しています。伊勢斎宮は皇女の中から選ばれ、伊勢神宮の神に仕える女性です。在原業平は天皇の勅使として伊勢に下向し、斎宮恬子内親王の館に泊まります。
その時に一晩の恋があり、この時の情交で恬子内親王は身ごもってしまったのでした。そして月満ちて恬子内親王は男子を出産。時の神祇伯だった高階峰緒は対処に苦慮し、内親王が産んだ子を師尚と名づけて引き取り、息子の養子にしたそうです。
しかしこの時から高階家は「はばかりある家系」とされ、伊勢神宮を参拝できない家系となってしまいました。
都市伝説・武勇伝2「后となる女性を盗み出したこと」
在原業平の女性遍歴として有名なものに、藤原氏が后へと育てていた藤原高子を盗み出すという事件を起こしています。藤原高子の養父は関白藤原良房であり、后にしようとしていました。その高子を在原業平が、盗み出して駆け落ちしてしまうのです。
二人で夜中抜け出した時に、高子は夜露を見て「あれは白玉かしら?」と聞き、男は「あれは白露ですよ」と答えたといいます。その後鬼に姫は連れられたと物語は終わっていますが、実際は父や兄に連れ戻されたのだろうといわれています。その時に在原業平は、
「白玉か なにぞと人の 問ひし時 露と答へて 消なましものを」
草の葉に落ちる白露をあれは白玉(真珠)かしらと問う人に、あの時露と答えた私も、露のように消えてしまえば良かったのにという歌を残しています。
都市伝説・武勇伝3「在原業平が六歌仙に選ばれた真の理由は…」
在原業平は、斎宮や摂関家の娘と恋愛する反社会的な貴公子としてのイメージが定着していますが、実は政治的に非常に不遇であったために、敢えて「六歌仙」に選ばれたという説があります。
在原業平だけではなく六歌仙に選ばれた他の人物は、文徳天皇の皇子で紀氏の血を引く惟喬親王を支持していました。業平も紀氏は妻の実家であり、皇位に就けず出家し隠居した惟喬親王の元を在原業平が訪れたという話もあります。
真相は現在知ることは難しいでしょうが、日本人は昔から「判官びいき」なところがあり、政変に負けた人を応援する傾向があります。もしかしたらそういった気質が六歌仙を作ったのかもしれません。
在原業平の年表
825年 – 0歳「皇族の両親の元で誕生する」
在原業平は、825年に平城天皇の第一皇子阿保親王と桓武天皇の皇女伊都内親王の間に生まれます。
阿保親王は父平城天皇が藤原薬子の変によって左遷され、大宰帥(福岡県)に任命され、平城天皇が崩御する824年まで帰郷が許されなかったといいます。
そして825年に在原業平が生まれます。生まれた場所ははっきりわかっていませんが、業平生誕の地として在原神社のある奈良県天理市が伝承で残っているそうです。奈良は祖父である平城天皇が住んでいた地であり、父の阿保親王と共に住んでいたというものです。
阿保親王の子供が臣籍降下となる
826年に阿保親王の子供である在原行平・在原業平等に在原朝臣姓を賜与され、臣籍降下しています。この頃は皇族が多く、税金が莫大にかかるために皇位継承権から遠い皇族は臣籍降下することにより、経費削減していました。
その流れから、嵯峨天皇系に皇位が移っていたため平城天皇系である阿保親王の皇子たちは、臣籍降下の対象となったのです。
849年 – 24歳「従五位下に叙される」
いつかはわかりませんが恐らく十代で元服し、左近近衛将監に蔵人として使えていたといいます。そして849年に無位から従五位下に昇進しています。しかしこの記録を最後に、10年以上昇進の記録は途絶え、不遇な時代を過ごしたと考えられています。
なお不遇時代に、藤原基経の妹藤原高子との駆け落ちがあったと考えられています。はっきりした時期はわかっていませんが、866年に25歳で高子が清和天皇に入内しているために、駆け落ち事件はそれまでの間に起こったと考えられているそうです。
すごくわかりやすい記事でした!
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