小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

在原業平とはどんな人?性格や伝説、百人一首にも選ばれた有名和歌も紹介

「在原業平ってどんな人物なのかな?」
「在原業平の和歌が知りたい」
「伊勢物語の主人公と習ったけど…」

在原業平は平安時代初期に活躍した公家の歌人です。伊勢物語の主人公といわれている人物で、官位はあまり上がりませんでしたが、和歌の天才児として、政治方面ではなく歌人として名を馳せた人物でした。平安時代の六歌仙の一人に選ばれ、多くの優れた和歌を残しています。

在原業平
出典:Wikipedia

百人一首でも一首選ばれており、情熱的な歌は平安時代からファンが多い歌人でもありました。そんな在原業平はどんな人物だったのか?代表歌から女性関係も見ていき、在原業平という人物を掘り下げていきます。

在原業平とはどんな人物か

名前在原業平
誕生日825年
没日880年7月9日
生地不明(奈良という説あり)
没地山城国が有力
阿保親王
伊都内親王
配偶者紀有常娘
埋葬場所不明

在原業平の生涯をハイライト

平安時代の公家のイメージ
出典:日本服飾史

在原業平の生涯を簡単にダイジェストします。物語などは含めずに、史実に記録されているものを挙げています。

  • 825年:平城天皇の皇子、阿保親王の5男として誕生する
  • 826年:父の臣籍降下に伴い“在原”姓を名乗る
  • 849年:従五位下に叙される
  • 862年:再度従五位下に叙される(降格されていた可能性あり)
  • 873年:従四位下に叙される
  • 879年:蔵人頭を務める
  • 880年:死去、享年56歳。

和歌の名人であった

六歌仙の画
出典:Wikipedia

在原業平は“日本三大実録”に「略無才学、善作倭歌」とあり、基礎的が学力は乏しいが和歌や非常に巧みだと書かれています。古今和歌集では「六歌仙」の一人として名前が上がっており、平安中期に選ばれた「三十六歌仙」の一人にも選ばれています。

和歌の作風は恋の歌など情熱的な歌が多く残されているのが特徴です。古今和歌集の序文で紀貫之が在原業平の作品を、

「在原の中将の歌は、其の情余りありて、其の詞足らず。萎める花の彩色少なしといへども薫香あるがごとし。」

作風は心が詰まっているけれども表現が追いつかず萎む花と表現された

在原業平の歌は、「心の情は溢れているが上手く表現できていない。萎む花のように色は少ないけれどもほのかに薫る香りの様だ」と評しています。辛口ですが、かなり的を射た批評だといわれています。在原業平の和歌の特徴は、言葉の省略が多く解釈が難しい歌が多いですが、ひとたび馴染むとしっくり馴染んでくるというものです。

紀貫之の批評は全て辛口ですが、「他の歌人は論じるまでもいかない」と記されており、評されるほど歌がうまいと認識されていたことが推定されています。

伊勢物語の主人公といわれている

伊勢物語を描いた画
出典:Wikipedia

平安時代の歌物語「伊勢物語」の主人公は在原業平ではないかといわれています。「いろごのみ」の理想形として後世影響を与え、源氏物語や枕草子にも名が出てくる物語です。冒頭は、

「昔、男ありけり」

で始まりはっきりと物語で在原業平の名前は書かれていませんが、源氏物語では伊勢物語を「在五の物語」と呼ばれており、平安時代には既に主人公=在原業平という認識だったことがわかります。在原の在に、5男だったためにそのように呼ばれたと考えられています。

清少納言が記した枕草子にも伊勢物語が出てくる
出典:Wikipedia

内容は東国へ旅に出る「東下り」や、男の恋愛遍歴から老人となった頃の話まであり、一代記構成取られています。枕草子にも、伊勢物語をもじった「いせのものがたり(僻の物語)」というえせ物語などを意味する言葉遊びが描かれているため、清少納言が生きた平安時代中期には既にかなり知識人に愛読されていた事が想定できる物語です。

清少納言とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や性格、紫式部との関係も紹介】

美男で高貴な血筋でもありモテモテだった

美男子だったという在原業平(イメージ)

在原業平は“日本三大実録”に「体貌閑麗、放縦不拘」と書かれ、美男子の代名詞的な存在です。容姿に加え血筋も父は平城天皇第一皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王という両親ともに皇族の出身という非常に高貴な血筋の人物でした。

ただし本来皇位につける血筋の在原業平ですが、祖父平城天皇が藤原薬子の変により失脚し皇位が嵯峨天皇系に移っています。そのため業平の時代には臣籍降下し皇族の身分を離れていました。血筋が良く、美男子で和歌が上手だったためか非常に女性にもてたらしく女性遍歴も多い人物です。

父阿保親王、父の代まで皇族だった
出典:Wikipedia

「和歌知顕集」という鎌倉時代の伊勢物語注釈書によると、生涯に3733人の女性と関係したと書かれています。後世の記録のため真実がどうかはわかりませんが、そんな記録が残るぐらい女性関係が派手だったのは事実なのでしょう。

関係を持った女性は3733人ともいわれているとか…

こうした「血筋は良いが皇族身分を離れた、恋多き美男の貴公子像」は、後世の源氏物語の光源氏のモデルであったのではないかという説もあります。

在原業平の代表歌

紅葉の赤が非常に情熱的に感じる歌だ

「ちはやぶる 神世もき聞かず 竜田川 からくれなゐに 水くゝるとは」

百人一首に採られた歌で、昔恋愛関係にあった藤原高子(二条后)の屏風に書いた歌といわれています。訳は「不思議な事が起こった神代でも聞いたことがない。竜田川の水面に紅葉が覆い、流れる水を紅に染め上げてしまうなんて」といった心でしょうか。紅葉の赤が際立つ在原業平らしい作品です。

カキツバタを見てとっさに詠む腕前は流石としか言いようがない

衣 着つつなれにし つましあれば はるばるきぬる 旅をしぞ思う」

古典の授業で習うことも多い、伊勢物語の「東下り」で出てくる歌です。「カキツバタ」を頭文字に使って歌を詠んでくれといわれて詠んだ歌といわれています。訳は「何度も袖を通して慣れ親しんだ妻、そんな妻と離れて遥々遠くに来た旅をしみじみとやるせなく感じる」です。とっさの作歌でもカキツバタを頭に入れ、「着る」と「来る」を掛ける歌の技量に驚かされる作品です。

ミヤコドリという名前を聞き詠んだ歌という
出典:Wikipedia

「名に負はば いざ言問わむ 都鳥 我が思う人や ありやなしやと」

東下りで詠まれた有名な歌です。隅田川を渡っている時に鳥の名を聞くと「都鳥」という名を聞き詠んだといいます。訳は「都と名の付くお前なら知っているだろうから聞いてみよう。我が恋しく思う人は、今も都で元気にしているかどうか」であり、これを聞いていた都から共に下っていた人は涙で乾飯が濡れたといいます。

非常に美しくも心動かされる桜の歌だ

「世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし」

在原業平の作品でも有名なものの1つです。訳は「もしもこの世に桜の花が無かったならばもっとのどかに過ごせただろうに。桜はもう散ってしまったのだろうか、もう少し咲いてくれたらとやきもきせずに済むのだから」というものです。日本人の桜に対する心は今も昔も変わらないことがわかる美しい歌です。

老いの道を桜の道で隠すとは粋な在原業平らしい歌だ

「桜花 散りかひくもれ 老いらくの 来むといふなる 道まがうがに」

関白藤原基経の40歳のお祝いの席で詠んだ歌といわれています。訳は「桜の花よ、どうか散ってあたりを曇らせておくれ。老いという道が曇ってわからなくなってしまうほどに」です。桜の散る美しい様と、老いという皆が通る道が儚くも際立つ一首です。

在原業平の功績

功績1「六歌仙の一人に選ばれるほどの和歌の達人だったこと」

六歌仙の画
出典:Wikipedia

在原業平の功績の一つはやはり六歌仙の1人に選ばれる程の和歌の巧みさが挙げられるでしょう。ただし六歌仙は必ずしも古今集に選出した和歌の数や、知名度で選ばれたわけでは無いという説が有力です。しかし在原業平は古今集に30首も採用されており、間違いなく古今集を彩る歌人の一人といって過言ではありません。

後世でも「六歌仙」は影響を与え、6人を持って和歌の名人という代名詞となりました。「六人党」「新六歌仙」など新たに六歌仙を模した選出がされています。和歌を志す人に憧れを抱かれたのは在原業平の功績といえるのではないでしょうか。

功績2「百人一首に選出されたこと」

百人一首により和歌は身近なものとなった
出典:Wikipedia

在原業平は百人一首にも選出されています。藤原定家が選出した百人一首は元々小倉山荘で選ばれた和歌ですが、後に歌がるたとして使用されるようになり、現在も親しまれています。

百人一首は広く庶民にまで貴族が愛好していた和歌が知られるきっかけとなりました。百人一首に選ばれることによって在原業平の歌も沢山の人に詠まれ、日本人に和歌を現在も伝えていることは功績の一つといえるでしょう。

功績3「職業歌人として花形だったこと」

大原野神社の神は藤原氏の氏神であった
出典:Wikipedia

在原業平は、宮中の儀式での歌詠みを多く受け持っています。宮中儀式で詠んだ歌は多く残っていますが、その中の一つにはかつての恋人だった清和天皇の后、藤原高子の大原野神社への参詣に近衛として付き従った時に詠んだ歌が残っています。

「大原や 小塩の山も 今日こそは 神代の事も 思ひ出づらめ」

大原の小潮の山に鎮座する神も、今日は遠い子孫である后の参拝を受けて神代の時代を懐かしく感じていることでしょう、と歌を差し上げています。その他にも儀式の歌を受け持ち、華やかな歌を詠み、儀式を雅に盛り上げる役割を果たしていたのです。

1 2

コメントを残す