「在原業平ってどんな人物なのかな?」
「在原業平の和歌が知りたい」
「伊勢物語の主人公と習ったけど…」
在原業平は平安時代初期に活躍した公家の歌人です。伊勢物語の主人公といわれている人物で、官位はあまり上がりませんでしたが、和歌の天才児として、政治方面ではなく歌人として名を馳せた人物でした。平安時代の六歌仙の一人に選ばれ、多くの優れた和歌を残しています。
百人一首でも一首選ばれており、情熱的な歌は平安時代からファンが多い歌人でもありました。そんな在原業平はどんな人物だったのか?代表歌から女性関係も見ていき、在原業平という人物を掘り下げていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
在原業平とはどんな人物か
名前 | 在原業平 |
---|---|
誕生日 | 825年 |
没日 | 880年7月9日 |
生地 | 不明(奈良という説あり) |
没地 | 山城国が有力 |
父 | 阿保親王 |
母 | 伊都内親王 |
配偶者 | 紀有常娘 |
埋葬場所 | 不明 |
在原業平の生涯をハイライト
在原業平の生涯を簡単にダイジェストします。物語などは含めずに、史実に記録されているものを挙げています。
- 825年:平城天皇の皇子、阿保親王の5男として誕生する
- 826年:父の臣籍降下に伴い“在原”姓を名乗る
- 849年:従五位下に叙される
- 862年:再度従五位下に叙される(降格されていた可能性あり)
- 873年:従四位下に叙される
- 879年:蔵人頭を務める
- 880年:死去、享年56歳。
和歌の名人であった
在原業平は“日本三大実録”に「略無才学、善作倭歌」とあり、基礎的が学力は乏しいが和歌や非常に巧みだと書かれています。古今和歌集では「六歌仙」の一人として名前が上がっており、平安中期に選ばれた「三十六歌仙」の一人にも選ばれています。
和歌の作風は恋の歌など情熱的な歌が多く残されているのが特徴です。古今和歌集の序文で紀貫之が在原業平の作品を、
「在原の中将の歌は、其の情余りありて、其の詞足らず。萎める花の彩色少なしといへども薫香あるがごとし。」
在原業平の歌は、「心の情は溢れているが上手く表現できていない。萎む花のように色は少ないけれどもほのかに薫る香りの様だ」と評しています。辛口ですが、かなり的を射た批評だといわれています。在原業平の和歌の特徴は、言葉の省略が多く解釈が難しい歌が多いですが、ひとたび馴染むとしっくり馴染んでくるというものです。
紀貫之の批評は全て辛口ですが、「他の歌人は論じるまでもいかない」と記されており、評されるほど歌がうまいと認識されていたことが推定されています。
伊勢物語の主人公といわれている
平安時代の歌物語「伊勢物語」の主人公は在原業平ではないかといわれています。「いろごのみ」の理想形として後世影響を与え、源氏物語や枕草子にも名が出てくる物語です。冒頭は、
「昔、男ありけり」
で始まりはっきりと物語で在原業平の名前は書かれていませんが、源氏物語では伊勢物語を「在五の物語」と呼ばれており、平安時代には既に主人公=在原業平という認識だったことがわかります。在原の在に、5男だったためにそのように呼ばれたと考えられています。
内容は東国へ旅に出る「東下り」や、男の恋愛遍歴から老人となった頃の話まであり、一代記構成取られています。枕草子にも、伊勢物語をもじった「いせのものがたり(僻の物語)」というえせ物語などを意味する言葉遊びが描かれているため、清少納言が生きた平安時代中期には既にかなり知識人に愛読されていた事が想定できる物語です。
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美男で高貴な血筋でもありモテモテだった
在原業平は“日本三大実録”に「体貌閑麗、放縦不拘」と書かれ、美男子の代名詞的な存在です。容姿に加え血筋も父は平城天皇第一皇子阿保親王、母は桓武天皇の皇女・伊都内親王という両親ともに皇族の出身という非常に高貴な血筋の人物でした。
ただし本来皇位につける血筋の在原業平ですが、祖父平城天皇が藤原薬子の変により失脚し皇位が嵯峨天皇系に移っています。そのため業平の時代には臣籍降下し皇族の身分を離れていました。血筋が良く、美男子で和歌が上手だったためか非常に女性にもてたらしく女性遍歴も多い人物です。
「和歌知顕集」という鎌倉時代の伊勢物語注釈書によると、生涯に3733人の女性と関係したと書かれています。後世の記録のため真実がどうかはわかりませんが、そんな記録が残るぐらい女性関係が派手だったのは事実なのでしょう。
こうした「血筋は良いが皇族身分を離れた、恋多き美男の貴公子像」は、後世の源氏物語の光源氏のモデルであったのではないかという説もあります。
すごくわかりやすい記事でした!
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