鎌倉幕府は、12世紀終わりから150年近く続いた日本初の長期武家政権です。初代源頼朝に始まり、歴代9人の人物が将軍職を担いました。しかし源頼朝こそカリスマ的リーダーシップを持つ武士でしたが、その死後は源氏一族で内紛を起こして源氏は滅亡します。その後は政治の実権を奪われた名前だけの摂家将軍や宮将軍だったために、将軍は影が薄いのが実情です。
この記事では、意外に知られていない鎌倉幕府将軍9人について、系図を見ながら紹介していきます。鎌倉幕府の将軍は嫡男が後を継ぐケースは少なく、どういった事情で将軍職を継ぐことになったのかも解説しています。将軍の変遷を見ていくと、鎌倉幕府という長期武家政権がどのように維持されていったのかもわかるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
鎌倉幕府の将軍9人を紹介
家系図
初代:源頼朝
源頼朝は源義朝の息子で、母は熱田大宮司藤原季範の娘である由良御前です。平治の乱で負けて父義朝を失っただけではなく、伊豆に配流となりました。1180年に平氏追討のために挙兵し、1185年に平氏を滅ぼします。守護・地頭を置くことで武家による全国支配をはじめ、1192年には征夷大将軍に任じられました。鎌倉幕府の誕生です。
幕府を鎌倉に置いたため、御白河法皇の死後は京にある朝廷と幕府との安定的な関係を築こうと力を尽くしますが、1199年に頼朝は他界してしまいました。死因は落馬とも言われています。
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二代:源頼家
源頼家は初代将軍源頼朝の嫡男です。母は初代執権北条時政の娘である政子です。父頼朝の急死後、頼家は家督を継ぎますが、訴訟に関しては有力御家人十三人の合議制が敷かれました。しかし十三人の一人であった梶原景時が失脚したのをきっかけに合議制は解体されていき、頼家は1202年に二代目鎌倉幕府将軍となりました。
比企能員(よしかず)の娘である若狭局が頼家の長男となる一幡を産んだため、比企氏が外戚となって権力を持つことを恐れた北条時政は、1203年に比企一族と一幡を殺害、頼家も修善寺に幽閉され、1204年に北条氏によって暗殺されました。
三代:源実朝
源実朝は初代将軍源頼朝と北条政子との間に生まれた二人目の男子でした。1203年に兄の頼家が幽閉されたため、3代将軍となります。北条氏が初代執権となり、政治の実権を握りますが、実朝は政所を中心として将軍権力の拡大をしようとします。しかし1219年に頼家の息子である公暁によって暗殺されてしまいました。この黒幕は今も不明のままです。
実朝は蹴鞠などの公家文化に親しんだ将軍としても知られています。和歌は「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原定家に師事しており、「小倉百人一首」にも作品が選ばれています。「金槐和歌集」という歌集も遺しています。
四代:藤原頼経
藤原頼経は摂関家として知られる九条道家の三男です。三代将軍源実朝の死後、当時の二代執権北条義時は親王を奉じて将軍を立てたいと思っていましたが、第82代後鳥羽上皇が国を分裂させる恐れがあると親王を将軍にすることを許さなかったため、初代将軍源頼朝の遠縁にあたる頼経を後継者としました。
四代目将軍に就任したのは1226年です。正室に二代将軍源頼家の娘である竹御所を迎えています。しかし名ばかりの将軍で不服を感じていた頼経は、1244年に四代執権北条経時によって将軍職を奪われてしまいました。頼経はその後も大殿と呼ばれて勢力を保っていたものの、執権勢力に反発する人たちに利用され、1246年に五代執権北条時頼により京都へ追放されてしまいました。
五代:藤原頼嗣
藤原頼嗣(1239〜1256)は四代将軍藤原頼経の息子です。1244年に五代将軍に就任しますが、実権は北条氏に握られていました。1245年に正室として北条経時の妹である檜皮(ひわだ)姫を迎え、北条氏が将軍外戚の地位を得ますが、檜皮姫は1247年に他界してしまいます。
1251年、幕府に対する謀反事件に頼嗣が関係していたとして将軍の地位を降ろされ、京都へ追放されます。1256年、父の死を見届けると頼嗣も後を追うように亡くなりました。享年18歳でした。
六代:宗尊親王
宗尊(むねたか)親王は第88代後嵯峨天皇の第一皇子です。承久の乱以降、鎌倉幕府は朝廷に深く関わるようになっており、後嵯峨天皇も幕府によって即位できた天皇でした。そのため、五代執権北条時頼による親王を将軍にしたいという申し出は受け入れられ、宗尊親王は六代将軍となります。皇族で初めての征夷大将軍です。
なお、第89代後深草天皇は宗尊親王の弟にあたります。宗尊親王の母の身分が低かったため、天皇に即位せず皇族将軍となったのです。しかし1266年、宗尊親王は謀反の疑いをかけられ、京都へ追放されます。なお、宗尊親王は歌人としても知られ、家集「瓊玉和歌集」などを遺しています。