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鎌倉幕府の全9代将軍と執権を一覧で紹介!家系図や覚え方も解説

鎌倉幕府は、12世紀終わりから150年近く続いた日本初の長期武家政権です。初代源頼朝に始まり、歴代9人の人物が将軍職を担いました。しかし源頼朝こそカリスマ的リーダーシップを持つ武士でしたが、その死後は源氏一族で内紛を起こして源氏は滅亡します。その後は政治の実権を奪われた名前だけの摂家将軍や宮将軍だったために、将軍は影が薄いのが実情です。

この記事では、意外に知られていない鎌倉幕府将軍9人について、系図を見ながら紹介していきます。鎌倉幕府の将軍は嫡男が後を継ぐケースは少なく、どういった事情で将軍職を継ぐことになったのかも解説しています。将軍の変遷を見ていくと、鎌倉幕府という長期武家政権がどのように維持されていったのかもわかるはずです。

鎌倉幕府の将軍9人を紹介

家系図

鎌倉幕府歴代将軍系図
出典:鎌倉歴代将軍

初代:源頼朝

源頼朝(1147〜1199)
出典:wikipedia

源頼朝は源義朝の息子で、母は熱田大宮司藤原季範の娘である由良御前です。平治の乱で負けて父義朝を失っただけではなく、伊豆に配流となりました。1180年に平氏追討のために挙兵し、1185年に平氏を滅ぼします。守護・地頭を置くことで武家による全国支配をはじめ、1192年には征夷大将軍に任じられました。鎌倉幕府の誕生です。

源頼朝の墓がある法華堂跡(神奈川県鎌倉市西御門)
出典:文化遺産オンライン

幕府を鎌倉に置いたため、御白河法皇の死後は京にある朝廷と幕府との安定的な関係を築こうと力を尽くしますが、1199年に頼朝は他界してしまいました。死因は落馬とも言われています。

源頼朝とはどんな人?生涯・年表まとめ【死因や性格、家系図も紹介】

二代:源頼家

源頼家(1182〜1204)
出典:wikipedia

源頼家は初代将軍源頼朝の嫡男です。母は初代執権北条時政の娘である政子です。父頼朝の急死後、頼家は家督を継ぎますが、訴訟に関しては有力御家人十三人の合議制が敷かれました。しかし十三人の一人であった梶原景時が失脚したのをきっかけに合議制は解体されていき、頼家は1202年に二代目鎌倉幕府将軍となりました。

比企一族の屋敷跡地に建つ妙本寺(神奈川県鎌倉市大町)
出典:妙本寺

比企能員(よしかず)の娘である若狭局が頼家の長男となる一幡を産んだため、比企氏が外戚となって権力を持つことを恐れた北条時政は、1203年に比企一族と一幡を殺害、頼家も修善寺に幽閉され、1204年に北条氏によって暗殺されました。

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三代:源実朝

源実朝(1192〜1219)
出典:wikipedia

源実朝は初代将軍源頼朝と北条政子との間に生まれた二人目の男子でした。1203年に兄の頼家が幽閉されたため、3代将軍となります。北条氏が初代執権となり、政治の実権を握りますが、実朝は政所を中心として将軍権力の拡大をしようとします。しかし1219年に頼家の息子である公暁によって暗殺されてしまいました。この黒幕は今も不明のままです。

実朝暗殺の場面は歌舞伎でも上演された。
出典:演劇博物館デジタル

実朝は蹴鞠などの公家文化に親しんだ将軍としても知られています。和歌は「新古今和歌集」の撰者の一人である藤原定家に師事しており、「小倉百人一首」にも作品が選ばれています。「金槐和歌集」という歌集も遺しています。

四代:藤原頼経

藤原頼経(1218〜1256)
出典:wikipedia

藤原頼経は摂関家として知られる九条道家の三男です。三代将軍源実朝の死後、当時の二代執権北条義時は親王を奉じて将軍を立てたいと思っていましたが、第82代後鳥羽上皇が国を分裂させる恐れがあると親王を将軍にすることを許さなかったため、初代将軍源頼朝の遠縁にあたる頼経を後継者としました。

頼経の正室であった竹御所の墓は妙本寺の新釈迦堂跡にある。
出典:鎌倉:妙本寺

四代目将軍に就任したのは1226年です。正室に二代将軍源頼家の娘である竹御所を迎えています。しかし名ばかりの将軍で不服を感じていた頼経は、1244年に四代執権北条経時によって将軍職を奪われてしまいました。頼経はその後も大殿と呼ばれて勢力を保っていたものの、執権勢力に反発する人たちに利用され、1246年に五代執権北条時頼により京都へ追放されてしまいました。

五代:藤原頼嗣

1236〜1333年まで将軍の御所が置かれていた若宮大路幕府跡に立つ石碑
出典:wikipedia

藤原頼嗣(1239〜1256)は四代将軍藤原頼経の息子です。1244年に五代将軍に就任しますが、実権は北条氏に握られていました。1245年に正室として北条経時の妹である檜皮(ひわだ)姫を迎え、北条氏が将軍外戚の地位を得ますが、檜皮姫は1247年に他界してしまいます。

藤原頼経が1235年に建立した明王院は代々の将軍の祈願所となっていた。
出典:鎌倉経済新聞

1251年、幕府に対する謀反事件に頼嗣が関係していたとして将軍の地位を降ろされ、京都へ追放されます。1256年、父の死を見届けると頼嗣も後を追うように亡くなりました。享年18歳でした。

六代:宗尊親王

系図を見ると宗尊親王(1242〜1274)以外にも鎌倉幕府と天皇家は深く関わっていることがわかる。
出典:鎌倉の歴史

宗尊(むねたか)親王は第88代後嵯峨天皇の第一皇子です。承久の乱以降、鎌倉幕府は朝廷に深く関わるようになっており、後嵯峨天皇も幕府によって即位できた天皇でした。そのため、五代執権北条時頼による親王を将軍にしたいという申し出は受け入れられ、宗尊親王は六代将軍となります。皇族で初めての征夷大将軍です。

宗尊親王が皇族将軍時代に修理が行われた大慈院跡
出典:大慈寺跡

なお、第89代後深草天皇は宗尊親王の弟にあたります。宗尊親王の母の身分が低かったため、天皇に即位せず皇族将軍となったのです。しかし1266年、宗尊親王は謀反の疑いをかけられ、京都へ追放されます。なお、宗尊親王は歌人としても知られ、家集「瓊玉和歌集」などを遺しています。

七代:惟康親王

惟康親王(1264〜1326)は、系図を遡ると初代鎌倉幕府将軍源頼朝の姉または妹である坊門姫の血を引いている。
出典:坊門姫

惟康親王は六代将軍宗尊親王の嫡男として鎌倉に生まれますが、父である宗尊親王が京都へ追放されたために1266年に3歳で七代将軍となりました。1270年には臣籍降下して源惟康となります。実権は八代執権北条時宗にありましたが、1274年に文永の役、1281年に弘安の役が起きており、蒙古襲来により国難の時期に源惟康は将軍職に就いていました。

肥後国御家人の竹崎季長(たけざきすえなが)が作成した「蒙古襲来絵詞」
出典:wikipedia

1287年、親王宣下がなされて惟康親王となります。これは北条得宗家内管領として政治を動かしていた平頼綱の意向によるもので、惟康親王を将軍の座から下ろすための下準備であったと考えられています。1289年に征夷大将軍を辞任し、京へ戻って出家しました。

八代:久明親王

14世紀はじめより幕府が皇位継承に介入し、両統迭立が行われるようになった。
出典:太平記の群像

久明親王(1276〜1328)は第89代後深草天皇の第六皇子です。1289年に八代鎌倉幕府将軍となりましたが、名ばかりの将軍であり、政治の実権は九代執権北条貞時が握っていました。久明親王は冷泉為相(ためすけ)を和歌の師と仰ぎ、いくつかの勅撰和歌集に作品が収められています。

勅撰和歌集としては最大の作品収録数となっている玉葉和歌集にも久明親王の和歌が収められている。
出典:塩哲の色不異空

妻として七代将軍惟康親王の娘を迎えており、1301年に守邦親王が生まれています。1308年に将軍の座を息子の守邦親王へ明け渡し、京へ戻って出家しました。しかし出家後の幕府との関係は良好である点は、歴代の親王将軍とは違ったものとなりました。

九代:守邦親王

鎌倉幕府滅亡の際に守邦親王が仮寓したという言い伝えが残る大塚八幡神社(埼玉県比企郡小川町)
出典: 円泉寺

守邦親王(1301〜1333)は八代将軍久明親王と七代将軍惟康親王の娘との間に生まれました。1308年に九代将軍に就任しますが、父同様に将軍とは名前だけの存在でした。

鎌倉幕府滅亡について書かれている「太平記」にも守邦親王の記述はない。
出典:国文学研究資料館

1333年に鎌倉幕府は滅亡します。北条氏一族は自害してこの世を去りますが、守邦親王がどう行動したのかは何もわかっていません。将軍職を辞し、出家してまもなく亡くなったと言われています。結果として守邦親王は鎌倉幕府将軍としては最長の24年9ヶ月もの間、将軍職を全うしたことになります。

将軍を補佐した執権16人

鎌倉将軍家と北条氏に関する系図
出典:かまくら家系図作成所

鎌倉幕府には、政所・侍所の別当を兼ねた北条氏が就く執権という役職がありました。三代将軍に就任した源実朝がまだ幼かったことから、執権制度が始まったと考えられています。鎌倉時代に執権として将軍を補佐した人は16人います。ここでは特に有名な人物を3人紹介します。

初代:北条時政

北条時政(1138〜1215)
出典:wikipedia

初代執権は北条時政です。源頼朝の正室である北条政子の父であり、二代将軍頼家と三代将軍実朝の祖父にあたります。1203年に北条氏追討を計画した比企能員を滅ぼし、初代執権となります。しかし強圧的な姿勢が他の御家人からの反発を招く結果となり、娘の政子と義時によって1205年に失脚させられて出家し、引退しました。

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二代:北条義時

2021年NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公でもある北条義時(1163〜1224)
出典:鎌倉トリップ

時政の後を受けて二代執権に就任したのが息子の北条義時です。有力な御家人を次々に排除し、執権政治を軌道に乗せていきます。鎌倉将軍の座は、三代源実朝の死後は空席になっており、義時は実朝亡き後は将軍不在のまま執権を務めています。

承久の乱における幕府軍の進路
出典:【歴史事件簿】

義時の執権在任中で最大の危機は承久の乱が起きたことでした。1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し、討幕を図ったのが承久の乱です。結果的には後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流させ、上皇の所領を没収し、西国の公領や荘園への地頭補任が決まるなど、鎌倉幕府の朝廷に対する立場の優位性が確立することになりました。

北条義時とはどんな人?年表まとめ【家系図や執権政治、承久の乱について紹介】

三代:北条泰時

北条泰時(1183〜1242)
出典:wikipedia

三代執権北条泰時は二代義時の長男です。義時の急死を受けて1224年に執権の座に就きました。1226年に藤原頼経を四代将軍に迎え、執権として政治を推し進めていきます。泰時の功績は、執権政治を確立させるために様々な制度を整えたことです。1225年には執権の補佐役として連署と評定衆を新しく設け、合議制を始めます。

武家のための法律なので、武士にわかりやすい文体で書かれた御成敗式目
出典:日本大学図書館法学部分館

1232年には御成敗式目(貞永式目)を定めました。源頼朝以来の先例や武家社会の道理を中心に御家人の権利や義務、所領相続について規定した幕府の基本法です。日本初の武家法であり、後の世に登場する戦国大名による分国法や、徳川幕府の定めた武家諸法度にも大きく影響を与えた法律でした。

鎌倉幕府執権一覧

鎌倉幕府歴代執権系図
出典:鎌倉幕府歴代執権
  • 初代北条時政
  • 二代北条義時
  • 三代北条泰時
  • 四代北条経時
  • 五代北条時頼
  • 六代北条(赤橋)長時
  • 七代北条政村
  • 八代北条時宗
  • 九代北条貞時
  • 十代北条師時(もろとき)
  • 十一代北条(大仏)宗宣
  • 十二代北条煕時(ひろとき)
  • 十三代北条基時
  • 十四代北条高時
  • 十五代北条(金沢)貞顕
  • 十六代北条(赤橋)守時

鎌倉幕府将軍9人の覚え方・語呂合わせ

源氏の氏神として知られる鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市)
出典:鶴岡八幡宮

源氏将軍

源氏三代の将軍は「鎌倉の将軍に寄り(初代頼朝)家(二代頼家)には朝(三代実朝)帰った」と覚えましょう。

摂家将軍

摂家将軍二人については「石鹸(摂家将軍)より(四代頼経)もいいと告げる(五代頼嗣)」と覚えられます。

宮将軍

宮将軍四人については「もう少しこう(皇族将軍)棟(六代宗尊親王)のこれ(七代維康親王)が…庇(八代久明親王)が紫外線から守って(九代守邦親王)欲しい」という語呂合わせで覚えることができます。

鎌倉幕府将軍に関するまとめ

源頼朝は、清和源氏の流れをくみ東国で力をつけた源義朝の息子という血筋もさることながら、人の心を掴む力やリーダーシップに秀でたカリスマ的存在でした。頼朝がいたからこそ史上初の幕府を開くことができました。逆にいえば、頼朝があまりに偉大すぎたため、二代目以降の将軍は難しい舵取りを任されたわけです。後世の人間から見れば、頼朝の子孫に関しては気の毒な印象もあります。

一方、お飾りのような摂家将軍や宮将軍も、鎌倉幕府と朝廷を結びつけるという重要な役割を果たしていました。実権を握っていた北条氏でしたが、血筋という点で考えると出自が低いために将軍職に就くことはできず、御家人の主君としては摂家将軍や宮将軍の存在が欠かせなかったのです。

鎌倉幕府の将軍たちを見ていくと、その時代の歴史背景も見えてきて興味深いですね。

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