七代:惟康親王
惟康親王は六代将軍宗尊親王の嫡男として鎌倉に生まれますが、父である宗尊親王が京都へ追放されたために1266年に3歳で七代将軍となりました。1270年には臣籍降下して源惟康となります。実権は八代執権北条時宗にありましたが、1274年に文永の役、1281年に弘安の役が起きており、蒙古襲来により国難の時期に源惟康は将軍職に就いていました。
1287年、親王宣下がなされて惟康親王となります。これは北条得宗家内管領として政治を動かしていた平頼綱の意向によるもので、惟康親王を将軍の座から下ろすための下準備であったと考えられています。1289年に征夷大将軍を辞任し、京へ戻って出家しました。
八代:久明親王
久明親王(1276〜1328)は第89代後深草天皇の第六皇子です。1289年に八代鎌倉幕府将軍となりましたが、名ばかりの将軍であり、政治の実権は九代執権北条貞時が握っていました。久明親王は冷泉為相(ためすけ)を和歌の師と仰ぎ、いくつかの勅撰和歌集に作品が収められています。
妻として七代将軍惟康親王の娘を迎えており、1301年に守邦親王が生まれています。1308年に将軍の座を息子の守邦親王へ明け渡し、京へ戻って出家しました。しかし出家後の幕府との関係は良好である点は、歴代の親王将軍とは違ったものとなりました。
九代:守邦親王
守邦親王(1301〜1333)は八代将軍久明親王と七代将軍惟康親王の娘との間に生まれました。1308年に九代将軍に就任しますが、父同様に将軍とは名前だけの存在でした。
1333年に鎌倉幕府は滅亡します。北条氏一族は自害してこの世を去りますが、守邦親王がどう行動したのかは何もわかっていません。将軍職を辞し、出家してまもなく亡くなったと言われています。結果として守邦親王は鎌倉幕府将軍としては最長の24年9ヶ月もの間、将軍職を全うしたことになります。
将軍を補佐した執権16人
鎌倉幕府には、政所・侍所の別当を兼ねた北条氏が就く執権という役職がありました。三代将軍に就任した源実朝がまだ幼かったことから、執権制度が始まったと考えられています。鎌倉時代に執権として将軍を補佐した人は16人います。ここでは特に有名な人物を3人紹介します。
初代:北条時政
初代執権は北条時政です。源頼朝の正室である北条政子の父であり、二代将軍頼家と三代将軍実朝の祖父にあたります。1203年に北条氏追討を計画した比企能員を滅ぼし、初代執権となります。しかし強圧的な姿勢が他の御家人からの反発を招く結果となり、娘の政子と義時によって1205年に失脚させられて出家し、引退しました。
北条時政とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や初代執権の活躍、家紋や家系図についても紹介】
二代:北条義時
時政の後を受けて二代執権に就任したのが息子の北条義時です。有力な御家人を次々に排除し、執権政治を軌道に乗せていきます。鎌倉将軍の座は、三代源実朝の死後は空席になっており、義時は実朝亡き後は将軍不在のまま執権を務めています。
義時の執権在任中で最大の危機は承久の乱が起きたことでした。1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発し、討幕を図ったのが承久の乱です。結果的には後鳥羽上皇ら三人の上皇を配流させ、上皇の所領を没収し、西国の公領や荘園への地頭補任が決まるなど、鎌倉幕府の朝廷に対する立場の優位性が確立することになりました。
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三代:北条泰時
三代執権北条泰時は二代義時の長男です。義時の急死を受けて1224年に執権の座に就きました。1226年に藤原頼経を四代将軍に迎え、執権として政治を推し進めていきます。泰時の功績は、執権政治を確立させるために様々な制度を整えたことです。1225年には執権の補佐役として連署と評定衆を新しく設け、合議制を始めます。
1232年には御成敗式目(貞永式目)を定めました。源頼朝以来の先例や武家社会の道理を中心に御家人の権利や義務、所領相続について規定した幕府の基本法です。日本初の武家法であり、後の世に登場する戦国大名による分国法や、徳川幕府の定めた武家諸法度にも大きく影響を与えた法律でした。
鎌倉幕府執権一覧
- 初代北条時政
- 二代北条義時
- 三代北条泰時
- 四代北条経時
- 五代北条時頼
- 六代北条(赤橋)長時
- 七代北条政村
- 八代北条時宗
- 九代北条貞時
- 十代北条師時(もろとき)
- 十一代北条(大仏)宗宣
- 十二代北条煕時(ひろとき)
- 十三代北条基時
- 十四代北条高時
- 十五代北条(金沢)貞顕
- 十六代北条(赤橋)守時
鎌倉幕府将軍9人の覚え方・語呂合わせ
源氏将軍
源氏三代の将軍は「鎌倉の将軍に寄り(初代頼朝)家(二代頼家)には朝(三代実朝)帰った」と覚えましょう。
摂家将軍
摂家将軍二人については「石鹸(摂家将軍)より(四代頼経)もいいと告げる(五代頼嗣)」と覚えられます。
宮将軍
宮将軍四人については「もう少しこう(皇族将軍)棟(六代宗尊親王)のこれ(七代維康親王)が…庇(八代久明親王)が紫外線から守って(九代守邦親王)欲しい」という語呂合わせで覚えることができます。
鎌倉幕府将軍に関するまとめ
源頼朝は、清和源氏の流れをくみ東国で力をつけた源義朝の息子という血筋もさることながら、人の心を掴む力やリーダーシップに秀でたカリスマ的存在でした。頼朝がいたからこそ史上初の幕府を開くことができました。逆にいえば、頼朝があまりに偉大すぎたため、二代目以降の将軍は難しい舵取りを任されたわけです。後世の人間から見れば、頼朝の子孫に関しては気の毒な印象もあります。
一方、お飾りのような摂家将軍や宮将軍も、鎌倉幕府と朝廷を結びつけるという重要な役割を果たしていました。実権を握っていた北条氏でしたが、血筋という点で考えると出自が低いために将軍職に就くことはできず、御家人の主君としては摂家将軍や宮将軍の存在が欠かせなかったのです。
鎌倉幕府の将軍たちを見ていくと、その時代の歴史背景も見えてきて興味深いですね。