北条時政とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や初代執権の活躍、家紋や家系図についても紹介】

北条時政は鎌倉幕府の初代執権を務めると共に、尼将軍・北条政子や北条義時の父親にあたる人物です。伊豆の小規模な豪族に過ぎなかった時政ですが、この地に源氏の嫡流である源頼朝が流れ着いた事で運命が大きく変わりました。時政は頼朝と共に挙兵。鎌倉幕府の創設に大きな功績を残したのです。

源頼朝が謎の死を遂げた後は、鎌倉将軍の政務を統括する執権に就任。幕府の実質的な支配者となったのです。僅か1代で地方の豪族から幕府の執権に上り詰めた時政は、日本史の中でも特に有能な人物と言えるでしょう。

北条時政

鎌倉幕府に与えた影響とは裏腹に、時政の知名度や評価は実は低いのが現状です。北条氏の権力の地固めをした2代目執権の義時や、御成敗式目を制定した泰時に比べるとその扱いは極めて小さく、不思議に思うかもしれません。

時政は息子である義時と対立し失脚。失意のうちにその生涯を終えました。時政の生涯については謎も多いものの、鎌倉時代を語る上では最重要人物です。「鎌倉殿の13人」の放送も決定した今だからこそ、時政について再考察が必要ではないでしょうか?

今回は鎌倉時代が大好きで、時政の老獪さやスケールの大きさに心を奪われてしまった筆者が、北条時政の生涯について解説します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

北条時政とはどんな人物か

北条時政の生涯をダイジェスト

北条時政の木像

北条義時の生涯をダイジェストすると以下のようになります。

  • 1138年 0歳 北条時政誕生
  • 1160年 23歳 源頼朝が伊豆国へ配流
  • 1177年頃 40歳 娘・政子が頼朝と結婚
  • 1180年 43歳 頼朝と挙兵する
  • 1185年 48歳 頼朝の命で入京し京都守護となる
  • 1199年 62歳 頼朝が死去し、十三人の合議制に加わる
  • 1200年 63歳 源氏一門以外で初めて国司となる
  • 1203年 66歳 比企能員の変 初代執権となる
  • 1205年 68歳 畠山重忠の乱 牧氏事件で失脚
  • 1215年 78歳 伊豆国で死去

娘の政子が源頼朝の妻になる!頼朝と共に挙兵

源頼朝(足利尊氏の弟の足利義直説あり)

平治の乱で源頼朝が伊豆国へ配流となった時、時政は監視役に任命されています。当時の頼朝は14歳、娘の政子は僅か4歳です。頼朝はこの地で20年に及ぶ日々を過ごしました。政子と頼朝が結婚したのは1177年頃とされます。

当時は平清盛率いる平家が全盛期の時代。時政は結婚に反対したものの、政子は駆け落ち騒動を起こす等に頼朝が好きでした。最終的に時政は2人の結婚を認めたのです。

背景には「平家政権が長く続かないと予測した」「政子の熱意に押された」等の説があります。1180年には以仁王(後白河天皇の第三皇子)が打倒平家の令旨を出し、全国的な騒乱である治承・寿永の乱が発生しました。

時政は頼朝と共に挙兵し、石橋山の戦い等に参戦します。様々な戦局を経て壇ノ浦の戦いを経て平家は滅亡し、奥州合戦を経て源氏の支配は全国に広がりました。当然北条氏は幕府での確固たる地位を築きます。

もし時政が平家の終焉を見越して政子との婚姻を認めたのであれば、時政の先見の明は確かなものだったと言えるでしょう。

鎌倉幕府最高職である初代執権に就任

頼朝亡き後に十三人の合議制が始動する
出典:土岐日記

1199年の頼朝の死去後、鎌倉幕府は有力御家人による集団指導体制が作られました。これを十三人の合議制と呼び、時政と息子の義時も名を連ねています。当然のように御家人同士の権力争いが勃発しました。

1203年の頃には、頼家(2代目将軍)の外祖父である時政と、頼家の妻の実家である比企氏の間で対立が起こります。時政は比企一族を滅亡させた後、頼家の弟である実朝を将軍に擁立させました。

源実朝

実朝はまだ14歳と幼く、時政は「将軍を補佐する執権」に任命されました。時政は初代執権と共に、「幕府の政務や訴訟を担当する政所」の別当にも就任した結果、鎌倉幕府における確固たる地位を築きます。

やがて時政から義時に執権の座が移る時、義時は「軍備や警察の役目を担う侍所」の別当にも就任しています。幕府の要職を一手に引き受けた結果、北条氏に逆らえる御家人はいなくなります。

北条氏はこれ以降も歴代の執権に就任。執権=幕府の最高権力者という構図が出来上がったのでした。

年の差婚で身を亡ぼす?最後は伊豆で幽閉

鎌倉幕府の公式書である吾妻鏡

時政は北条氏から見れば鎌倉幕府の地固めの祖を築いた存在です。にもかかわらず北条氏の子孫達は「初代執権を北条義時」として時政を祭祀から外す等、存在を抹消しています。これは時政と義時・政子の対立が原因でした。

時政の前妻は「伊東入道の娘」と推測され、宗時・阿波局・義時が生まれています(ちなみに政子の母は不明)。1180年頃に時政は「牧の方」という歳の離れた女性を妻に迎え、1男3女を授かりました。

牧の方の年齢は不明なものの、2人の仲は良かったそうです。1205年頃には牧の方は権力志向を持つようになり、娘婿の平賀朝雅を次期将軍に擁立しようと実朝の暗殺を時政に持ちかけました。時政もそれに応じています。

結果的には義時・政子が計画を未然に防ぎ、御家人の多くも時政に反旗を翻しました。時政と牧の方は出家し、伊豆国の北条へ幽閉されます。時政は表舞台に復帰する事はなく、10年後に腫物にて亡くなっています。

時政は牧の方にそそのかされ、無理な計画を実行しようとして失脚したと言うイメージが強いです。やはり晩節を汚すと、その評価は厳しいものになるのですね。

北条時政の家族構成は?源頼朝や北条義時との関係性

北条時政の家族構成

時政は前述した通り「伊東入道の娘」と「牧の方」と言う2人の妻がいました。2人の妻からは7人の子が生まれていますが、その他にも政子を含めて1人の男子と7人の女子がいたようです。

これらの15人の子のうち、鎌倉幕府に大きな影響を与えたのは、北条政子と北条義時でしょう。政子は時政の長女であり後に源頼朝と結婚。時政は頼朝の舅として頼朝の後援者となりました。

また義時は時政の次男です。時政には宗時と言う長男がいたものの、石橋山の戦いで戦死。結果的に嫡男となり、後の2代目執権に就任しました。

足利宗家2代目当主の足利義兼(尊氏は昆孫にあたる)

その他の子として、頼朝の義弟・阿野全成に嫁いだ阿波局。足利尊氏の先祖・足利義兼に嫁いだ時子。牧の方の唯一の男子でありながら16歳で急死した政範。1240年まで生存し、北条氏の重鎮となった時房らがいます。

時政の子達は鎌倉幕府の創設だけでなく、後の室町幕府の創設にも関与しているのですね。

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