小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

太宰治の死因と原因は?最後の様子、没年月日、心中した愛人についても解説

太宰治の死因は?」
太宰治はなぜ自殺したの?」

太宰治は数々の有名な作品を残していますが、実は38歳という若さで亡くなっています。死因は自殺で、主な原因は身分の高さゆえの苦悩や複雑な恋愛遍歴、薬物中毒や病気による精神衰弱など、さまざまな憶測があります。

また芥川龍之介の大ファンとしても知られ、彼の自殺を知った際にはショックで落ち込んでしまうほど、繊細で神経質な性格が関係していたという議論もあります。

今回はそんな太宰治の死因やその原因、さらに一緒に心中してしまった女性についても詳しくご紹介します。

太宰治とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、女性関係も紹介】

太宰治の死因は?

有名な太宰治の写真
出典元:Wikipedia

太宰治は、1909年6月19日に青森県で生まれ、1948年6月13日に亡くなりました。彼の死因はなんだったのでしょうか?

死因は「入水自殺」

冷たい川の中で亡くなった2人

太宰治の死因は入水自殺です。6月13日の深夜、愛人であった山崎富栄とともに東京玉川へ向かい、お互いの身体を帯で結んで、川へ身を投げたのです。

入水自殺は簡単に言うと、自ら溺死することです。苦しい方法であるにも関わらず、太宰治はこのやり方で自殺を図り、命を落としました。

しかし当時の検視によると、太宰治は穏やかな表情でほとんど水を飲んでおらず、入水自殺を図る以前に泥酔状態だったのではないかとの報道もありました。

過去にも自殺未遂の経験があった

若かりし頃の太宰治
出典元:wikipedia

太宰治は亡くなる以前にも、4度の自殺未遂を経験しています。彼の希死念慮は、20歳のときから既に始まっていました。

1度目は1929年、太宰治が20歳のときです。最初の妻となる小山初代とすでに親密な関係になっていた頃、同時に左翼運動にも積極的に参加するようになっていました。そんなときに突如、鎮静睡眠剤であるカルモチンを用いた自殺を図ります。

このときはすぐに発見され、早急な手当てを受けたために助かりました。

しかし翌年、太宰治はまたしても自殺未遂を起こすのです。小山初代との結婚に向け、太宰治の兄が仮祝言を挙げてくれるのですが、なんと翌日から愛人の田辺シメ子と出かけてしまいます。4日後にシメ子とカルモチン自殺を図り、太宰治は一命を取り留めたものの、田辺シメ子は亡くなってしまいました。

3度目は1935年、26歳のときです。この頃太宰治は大学を卒業できない危機に直面し、就職活動も不採用続きで追い込まれていました。首吊り自殺を図りますが失敗に終わり、体調の悪化もあって入院することとなりました。

4度目は薬物依存治療のための入院を終えたときで、原因は妻の初代が浮気をしていたことが発覚したからでした。ショックを受けた太宰治は、1937年に初代とカルモチン自殺を図ります。しかし結果は失敗に終わり、初代とは離婚することになります。太宰治はその後1年間執筆できないほど、落ち込んでいたといいます。

芥川龍之介の死因は?その真実や理由、周りに与えた影響も解明

太宰治が自殺に至った4つの原因

太宰治はなぜここまで何度も自殺を図ったのでしょうか?過去に4度も自殺を図り失敗しています。自殺を至っているのには原因があります。太宰治が死を求めた原因は、なんだったのでしょうか?

芥川龍之介の自殺にショックを受けていた

太宰治は16歳の頃から、仲間たちで集まり同人雑誌への記事投稿を始めていました。その頃より芥川龍之介に心酔し、熱狂的なファンだったのです。

太宰治の写真には、芥川龍之介のポーズを真似て撮っているものも多く、どれだけ敬愛していたかを感じ取れます。しかし芥川龍之介は、太宰治が18歳だった1927年に服毒自殺してしまいました。

敬愛する芥川のポーズをマネる太宰治
出典元:不思議.net

太宰治は猛烈なショックを受け、学業にも手がつかないほどでした。

芥川龍之介と太宰治の関係がよくわかる3つの逸話・エピソード

自身の身分不相応に悩んでいた

太宰治の青森県にある実家は、とても裕福な家庭でした。地元の大地主で、父は貴族院議員も務めたエリート、太宰治も幼い頃より優秀な子どもだったのです。

しかし青年期になると、左翼思想を持ち学業もおろそかになったり、身分違いの恋人のことも相まって、自身の身分と思想との相違に悩み始めました。実家に対して、自分はなんて迷惑をかけているのかと、自責の念にもかられたのです。

実家への恩返しとして、「芥川賞」を受賞したいと直談判もしましたが、結局手にすることはできませんでした。

薬物依存だった

酒を飲み上機嫌な太宰治
出典元:美術手帖

3度目の自殺未遂の際、腹痛で病院に運び込まれた太宰治は、急性盲腸炎だと診断され手術を受けました。しかし腹膜炎も併発し、その際に鎮痛麻酔薬である「パピナール」を投薬されます。

太宰治は、投薬をきっかけにパビナール中毒となり、1日に何十本ものパピナールを注射するほど悪化してしまいます。入院と退院を繰り返した後に、薬物中毒は根治しますが、精神的にとても辛いものでした。

結核を患っていた

通常の結核菌
出典元:西日本新聞

結核とは空気感染を起こす感染症のひとつで、主に肺の内部で結核菌が増殖し、咳や痰に加えて呼吸困難の症状が起こります。太宰治が亡くなった昭和20年代までは、「不治の病」と呼ばれ恐れられていました。

太宰治も長らく結核を患っており、度々喀血も起こしていました。晩年は症状が悪化し、非常に大変な身体で執筆を続け、薬を用いながら「人間失格」を発表しています。しかし過労や過剰飲酒がたたったのか、亡くなった年の1月には喀血が続くようになり、ついに身体は悲鳴をあげたのです。

太宰治の「最後の様子」は?

上記でも解説しましたが、6月13日の深夜、2人は玉川で入水自殺してしまいました。お互いの身体を帯で縛り、太宰治の顔は安らかなものでした。

翌日に2人の遺書が発見されたことによって捜索が開始し、6月19日に遺体が見つかります。奇しくもその日は、太宰治の誕生日でした。

いつもと変わらず出かけ、愛人と密会

愛人との密会

亡くなった当時、太宰治には美知子という2人目の妻がいました。しかし亡くなる数日前にいつもの様子でふらっと出かけていき、心中するまで愛人である富栄と密会していたのです。

この頃は太宰治の結核の症状は重く、富栄は献身的な看護を引き受けていました。伝染るとされた結核患者を相手に、最後まで傍で慕い続けたのです。

遺体発見時、太宰治の服装は家を出たときのまま、ワイシャツとボタン姿でした。富栄はワンピースを着用しており、2人の遺体はその後火葬され、もちろん別々のお墓に埋葬されました。

妻にあてた遺書が残っていた

遺書のつもりで書いた小説「晩年」
出典元:アマゾン

太宰治は妻宛の遺書を残していました。「美知様、誰よりもお前を愛していました」と記された遺書には、他にも「あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。」とも書かれていました。

「愛人を抱えた人が何を言ってるんだ?」とも言いたくなりますが、心の底から愛していたのは妻1人だけだったのかもしれません。

ちなみに、富栄も美智子に対する気持ちを日記に残しています。中には「奥さんすみません」と、謝罪の言葉がしたためられていました。

一緒に心中した山崎富栄とは?心中した理由は?

太宰治は恋愛遍歴の多い男性で、数々の愛人も存在しました。最後をともにした山崎富栄とはどんな人物だったのでしょうか?心中をした理由も解説します。

一緒に心中した山崎富栄ってどんな人?

太宰治の愛人であり心中をした山崎富栄
出典元:japaaanマガジン

山崎富栄は1919年に東京で生まれた、太宰治の愛人の1人です。富栄の父は、日本で初めての美容学校である「東京婦人美髪美容学校」創設者の山崎晴弘でした。

富栄は1944年に三井物産の社員だった奥名という男性と結婚しますが、新婚生活はわずか12日しかありませんでした。なぜなら当時は戦争下、奥名は戦地へ向かい、そのまま行方不明になってしまったのです。結局1948年に、正式に戦死の通達が届いています。

戦後は美容師として働いており、1947年に屋台で太宰治と出会いました。「僕と死ぬ気で恋愛してみないか」と口説かれた富栄は、後に愛人関係へと発展。太宰治を心から愛するようになりました。

肺結核を患う太宰治を献身的に支え、自身の貯金も介護費にあてています。しかし太宰治には当時、太田静子という別の愛人がおり、静子との間に子どもが出来ると、強い嫉妬心を抱くようになったのです。

太宰治の子供・子孫をわかりやすく解説!父との関係も紹介

なぜ一緒に心中をしたの?

心中した際、太宰治は38歳で山崎富栄は27歳でした。なぜ富栄は年若くして、太宰治と心中することを選んだのでしょうか?

2人が自殺した日、富栄はもう1人の愛人である太田静子に手紙を送っています。その内容は「私は修治さんが好きなので一緒に死にます」というものでした。

修治とは太宰治の本名で、富栄は彼を心から愛していたのです。さらに公式遺書には、太宰治を夫だった奥名以上に愛したこと、もう少し生きようかと思ったが、一緒に死にたいと思ったことなどが綴られていました。

愛する人が自ら命を断つとき、一緒にいきたいと願ってのことだったのです。太宰治の自殺には、富栄の「無理心中説」も存在しますが、彼女の愛を知るとその説は違っているように思います。

太宰治の死因に関するまとめ

太宰治について、皆さんはどれくらい知っていましたか?

彼の作品は教科書にも起用されているので、馴染みの深いものですが、「太宰治本人についてはあまり知らなかった」という人も多いでしょう。確かに少しクセのある人物ではありますが、誰よりも繊細で愛情深い人だったのでは?と筆者は考えています。

自殺してしまった事実はとても残念なことですが、太宰治がこの世を去って70年以上、彼の作品は今も多くの人に愛されています。今回の記事を読んで、太宰治の死因だけでなく、内面や人間性を知って頂けたら幸いです。

太宰治の作品に対する著作権は、彼の没後70年たった時点で期限切れになっており、今では著作権フリーで使うことができます。今後も太宰治を愛して、知っていって欲しいと願っています。

こちらの記事もおすすめ

太宰治はどんな性格だった?女性関係や作品から見える人物像とは

コメントを残す