吉備真備にまつわる逸話・伝説
逸話1「唐で阿倍仲麻呂の霊に会っていた!?」
吉備真備が唐にいるときに、唐人に楼に閉じ込められた際に阿倍仲麻呂の霊に出会い助けられたという伝説があります。伝説によると、阿倍仲麻呂は才能を妬む唐の役人に酒に酔わされて高楼(たかどの)に幽閉されて鬼となってしまっていました。
その阿倍仲麻呂が吉備真備を助け、難解な「野馬台の詩」の解読や、囲碁の勝負の手助けをします。驚いた唐人は食事を断って真備を殺そうとしますが、陰陽道で日月を封じたため、驚いた唐人は真備を釈放したという物語が「江談抄」や「吉備大臣入唐絵巻」に載っています。
ただし真備が唐に渡ったときは、阿倍仲麻呂はまだ存命していました。そのため後年の創作ではあるのですが、そのような伝説が生まれるほど、阿倍仲麻呂と吉備真備は人々の憧れの的であったと同時に、唐で功績を残した事が如何に難しかったかがわかる伝説です。
逸話2「九尾の狐を唐から連れてきたらしい…」
吉備真備は唐の書物だけでなく、「九尾の狐」も連れ帰ってきたという伝説があります。当時の日本では天界から遣わされた神獣とされていました。平安時代の「延喜式」には九尾の狐を「神獣なり、その形赤色、或いはいわく白色、音嬰児の如し」とあります。
しかし時代を下ると、平安時代末期には「玉藻前」という鳥羽天皇を惑わす美女として現れるようになります。最初は神獣だったのが次第に国を惑わす美女の姿をした妖怪の代名詞となっていったのでした。もちろん伝説の生き物なのですが、後年国を惑わす美女となる妖怪を連れ帰ってきた人物が吉備真備とされているのが面白いところです。
逸話3「真備の父も新しいものを取り入れる人だった」
吉備真備だけでなく、父の下道圀勝も非常に新しいものに敏感な人だったようです。例えば、名前の「圀勝」は、元々「国勝」と名乗っていましたが漢字を改変しています。この「圀」という字は、当時周(唐)の武則天が制定した文字であり、武則天が制定したのが690年頃なので約20年くらいで文字を取り入れていたことになります。
また真備の祖母は当時土葬が主流だった時代に、708年に火葬されたことがわかっています。日本に火葬制度が伝わったのが700年頃で、あまり普及していませんでした。そんな中伝わって8年で火葬しているところに、真備の父の新しいことに対する柔軟性がわかり、その気質が吉備真備という人物を生み出したのかもしれません。
吉備真備の生涯年表
695年 – 0歳「備中国(岡山県)か大和(奈良)で誕生する」
695年に備中国下道郡也多郷土師谷天原(現在の岡山県倉敷市真備町箭田)に地方豪族の下道圀勝の子として生まれたというのが一般的な説です。ただし、近年実は大和で生まれたという説も出ています。理由は父の下道國勝が、真備が生まれた頃に平城京の警備兵として勤務していたからだそうです。
また妻の大和地方の豪族の娘であるために、なおこの説に信憑性が増してきているといいます。今後の研究が待たれるところです。
大学に入学する
恐らく710年頃に大学に入学したと考えられています。基本大学に入学できるのは従五位以上の身分が高い貴族の子弟が通うところでしたが、下級官僚の息子である真備は本来通えないのですが、特別に通うことができたのだと想像できます。
そして大学卒業後従八位下という官位を与えられています。官位は低いですが、当時は身分が高い子弟に官位を与えるのが常だったので、特別に官位を得ていることに大学時代に優秀だったからだろう事が想定できます。
717年 – 22歳「一回目の遣唐使に選ばれる」
吉備真備は717年に遣唐使として最初の渡航をしました。立場は留学生で、同じ船には僧侶の玄昉も一緒であり、総勢は557人で4隻の船に分乗して乗ったと伝わっています。そして当時の遣唐使船は難破も多く命がけの旅でしたが、運よく真備の船は半年かかって無事に長安に辿り着いています。
唐で活躍する
吉備真備は18年間唐で生活しました。唐での生活は詳しくはわかっていませんが、おそらく留学生の収容施設で他の留学生と一緒に学び、卒業後は他の学校で勉学に励んだのではないかといわれています。
後に日本に帰国した際に色々な知識を日本にもたらしているために、あらゆる方面で勉学に励んだことは容易に想像つきます。生活費は日本から持たされたお金と、唐の奨学金で生活したと考えられているそうです。
735年 – 40歳「帰国し多くの知識を日本にもたらす」
735年に日本に帰国し、多くの品を日本に持ち帰っています。史書などの書籍から、武器や測量器など非常に貴重なものでした。平安時代の歴史書「扶桑略記」に、
「真備が唐より持ち帰った品々は、あまりにも品数が多くて記すことができない」
と書かれています。つまり記録が残っているものだけでなく、記せなかったものも多くあるといわれています。これらの品は日本の文化に多大な貢献を残しました。
大学助に任命される
唐から帰国した真備は「大学助」という大学の副学長に就任しました。今のように大学が沢山ない時代、真備の責務は日本教育に重大でした。そして大学制度改革に取り組んでいます。
どの様な改革かというと、使用されている教科書に「三史」を追加し、歴史教育を強化しました。具体的な内容は研究者によって意見が分かれていますが、恐らく「史記」「漢書」「後漢書」ではないかと考えられています。
また大学における孔子を祀る儀式を、より格式ある体裁に整えています。これは真備の持ち帰った典礼書により可能になったのでした。