吉備真備は陰陽道の祖だった?
吉備真備は陰陽道の祖だったといわれています。元来呪術は「呪禁師(じゅごんし)」というまじない師が行っていましたが、吉備真備が「呪禁師」を廃して「陰陽道」を採用し、まじないの類は陰陽道の仕事となったそうです。吉備真備は唐から陰陽道の聖典「金鳥玉兎集」を持ち帰り、阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたことから始まったといわれています。
平安時代初期の「続日本記」には既に吉備真備の陰陽道の話が載せられており、平安時代中期に書かれた「今昔物語」には、吉備真備の陰陽道の説話が収録されているところから、平安時代には吉備真備=陰陽道というイメージが定着していたようです。そして中世の「愚管抄」には“吉備真備は陰陽道の始祖”と書かれています。
説話によると、帰国してからも呪術師として活躍し“飛行の術”で驚かしたというエピソードが紹介されています。また妬んで怨霊化した藤原広嗣を、吉備真備が陰陽道で鎮魂に成功するという話も残っているのです。
平安時代の有力な陰陽師だった安倍晴明は“吉備真備の書物”で陰陽道を学び、奥義を習得したといわれています。そして宿敵の蘆屋道満に、吉備真備の書物を盗まれたりもしています。それほど真備が残した書は、陰陽道にとっての極意が記されているものであることが想定され、阿倍仲麻呂の子孫の安倍晴明が持っていたことも感慨深く感じられます。
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日本に初めて孫子の兵法を伝えた
現在でも多くの人に支持されている“孫氏の兵法”を、初めて日本に伝えたのが吉備真備といわれています。戦争に勝つための兵法で、中国では諸葛孔明や曹操、フランスではナポレオン、日本では徳川家康や武田信玄が愛読したといいます。
はっきりと真備が伝えたと記録があるわけではありませんが、孫子の兵法が登場するのが「続日本書紀」での真備が行った軍隊教育のページに記されているそうです。また真備は後年の藤原広嗣の乱でもこの兵法を駆使して勝利を収めたといわれています。
吉備真備の功績
功績1「地方豪族から異例の出世を遂げたこと」
吉備真備は地方豪族でありながら、異例の出世を遂げました。奈良時代の政界は皇族と藤原氏が占めており、官位を得るには身分の壁が厚い時代でした。当時日本は唐の律令国家を模範とした国づくりを目指しており、遣唐使から戻ってきた真備の知識は非常に重宝されました。
そのため聖武天皇に重宝され、異例の出世をしています。途中藤原仲麻呂によって左遷されたりもしますが、藤原仲麻呂と対立する称徳天皇に取り立てられ最終的に右大臣まで上り詰めました。学者から右大臣まで出世したのは日本史上、菅原道真と吉備真備だけであり自分の才能で出世した人物の走りといえるでしょう。
功績2「色々な日本の“元祖”といわれていたこと」
吉備真備は日本に唐からの文化を伝えると同時に、先述の陰陽道の祖以外にも、カタカナの発明者であり、囲碁の元祖と長らくいわれていました。
真備は日本に帰ってきたときに、囲碁を持ち込んだといわれてきました。しかし近年では「魏志倭人伝」にに囲碁と双六が出ているので、実際は違うものの長らく囲碁の元祖と思われてきたようです。実際に囲碁はかなりの腕前だったといいます。
ただし囲碁は名人の石を飲んで唐の囲碁名人に勝利したという驚くべき逸話が残っています。真意はともかく、大国唐の囲碁名人に皇帝の前で勝利したという説話は昔の人に非常な印象を与えたらしく、長らく“囲碁の祖”といわれるようになったといわれたようです。
また唐から哀晋卿(えんしんけい)という少年を連れて帰り、日本が以前から使っていた「呉音」を「漢音」に改めようと努力し、「カタカナ」を作ったいわれています。そのためそれにちなんで岡山の吉備真備公園にはカタカナを彫った丸石がのった亀の像があります。
近年元祖でないとわかったものもあったとしても、長らく日本では“吉備真備が元祖”と信じられており、それだけの功績を残したと認識されていたからの結果と考えられるのではないでしょうか。
功績3「仏教の普及に多大な貢献を残したこと」
吉備真備は二度目の渡唐で、鑑真と共に帰朝し日本に律を伝えたといいます。鑑真が来日したことにより、日本は中国と同じく戒律を修めて僧となる仕組みが整っていくことになります。
鑑真は渡日後に東大寺に戒壇を作り、聖武天皇や称徳天皇などを筆頭に、日本の人々に初めて戒律を授けています。その後唐招提寺を本拠に構えて戒律研究に専念し、教えは今日も続いているそうです。現在も続く仏教界に大きく影響を及ぼす功績を残したことは、間違いなく吉備真備の功績の一つといえそうです。
吉備真備の残した言葉
「長生の弊、却りて此の恥に合ふ(長生きした為に、とんだ恥をかいてしまったことよ)」
吉備真備の言葉で、有名な一言です。称徳天皇が崩御した後の後継者争いに敗れた際にいった言葉として後世の歴史書「水鏡」に記されています。しかし「続日本書紀」には記されていないため、最近は後世の創作ではないかとも考えられているそうです。