738年 – 43歳「橘諸兄に重用され異例の出世をする」
帰朝したときから異例の出世を続けていた真備ですが、738年に橘諸兄が右大臣になり政権を握ると、遣唐使の同期である玄昉と共に重用され右衛士督に叙されています。官位も従五位上まで昇進し、帰国して3年で三位も昇進したのです。
740年 – 45歳「藤原広嗣の乱が起こる」
740年に吉備真備と玄昉を追放すべきだと主張して、太宰府少弐だった藤原広嗣は二人を批判することで暗に橘諸兄を批判していたと考えられています。乱は平定され広嗣は処刑されますが、急速に台頭する二人を快く思っていない人もいるということが露見した事件となりました。
746年 – 51歳「吉備の姓を授かるも左遷される」
746年に下道から「吉備」の姓を授かっています。真備の勢力が吉備全土を代表する豪族と認められたと考えられています。しかし747年には藤原仲麻呂が台頭すると、これまでの役職を止められ右京大夫に転じ、750年には肥前守に左遷されてしまいます。
2回目の遣唐使に任命される
752年に再度遣唐副使に任命され、唐に渡っています。目的は高僧の召喚・対新羅対策・金の調達だといわれています。翌年に鑑真を連れて帰京に成功し、日本の仏教界に大きな足跡を残しました。真備は帰朝後、大宰府で政務を行っています。そして唐で学んだ兵学を活かし、大宰府の軍事改革を行いました。
756年 – 62歳「新羅の攻撃に備えて怡土城を築く」
756年に新羅の攻撃に備えて、筑前国(福岡県)に怡土城を築きました。そして758年に唐で安史の乱が起こったため、日本にも影響が及ぶことを恐れ備えるように淳仁天皇から勅を受けています。その時に真備は淳仁天皇に改善点を進言し、天皇は改善の勅を出しています。
759年には藤原仲麻呂の意向もあり新羅征討を行う方針が決まり、唐の兵学を学んだ真備の主導により準備も進められます。しかし、後に孝謙天皇と藤原仲麻呂が不和である影響もあり征討は中止となりました。
764年 – 70歳「大和に戻り右大臣に昇進する」
764年に大和に戻り、同年に藤原仲麻呂の乱が始まると称徳天皇側の追討軍を指揮しています。乱が治まった後は、称徳天皇により766年に右大臣に任命されました。学者で右大臣まで登ったのは真備と菅原道真のみです。
右大臣に就任時に、称徳天皇の時代に道鏡が代わりに天皇の位に就こうという事件が発生します。しかし同じ吉備国出身の和気清麻呂と皇位を阻んだといわれています。しかし左遷されていたのを救い出したのが称徳天皇と道鏡だったため、騒動を止めることが出来なかったのではないかと考えられています。
そんな中770年に称徳天皇は崩御。この時皇嗣争いに負け、藤原百川が推す光仁天皇が即位しました。しかし朝廷内での真備の立場は安定していたようです。
775年 – 81歳「大和で死去する」
光仁天皇即位後に、老齢を理由に辞職を願い出ますが退けられ、翌年に再度辞職を願い出て許されています。それ以後の生活はわかっていませんが、775年に81歳で死去しました。死去した場所は大和説と吉備説がありますが、大和説が有力です。
理由は唐や九州以外はほとんど大和で過ごしているからです。奈良県の吉備塚古墳が吉備真備の墓と伝わっています。また吉備町のまきび公園にも真備の墓があります。
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実像 吉備真備 (22世紀アート)
岡山出身の著者が、文献・資料を丹念に読んで吉備真備という人物を迫っています。賛美だけでなく、欠点も中立的な視線で書いてあり、吉備真備を知りたい人にはおすすめです。kindleで、無料で読めるようですのでkindleを利用している人に特におすすめです。
女帝の手記―孝謙・称徳天皇物語 (1)
筆者一押しの作品です。称徳天皇が主人公の漫画ですが、奈良時代に興味が無い人でも人間模様に引き込まれ、歴史の勉強にもなる一冊です。
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大仏開眼
東大寺の大仏を巡っての人間ドラマが描かれた作品です。特に孝謙天皇(阿倍内親王)と吉備真備の師弟愛が見どころです。真備が阿倍内親王に「大王におなりなさい」というシーンは最大の見せ場となっています。
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吉備真備についてのまとめ
いかがでしたでしょうか?吉備真備の人生を簡単に振り返ってみましたが、古代の歴史書と同じように書ききれなかったことも多々あり、非常に濃い人生を送った人なのだなと感じています。
一豪族が右大臣にまで出世するには計り知れない努力と行動があり、新しいものを日本に持ち込んで貢献した人だと再認識しました。伝記に書ききれない程の彼の偉業が、現在の日本を作る大きな役割をはたしたことをこの記事で知っていただいた方がいたら嬉しく思います。最後までお付き合いいただきありがとうございました。