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吉備真備とはどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や伝説も紹介】

「吉備真備ってどんな人?」
「陰陽道の元祖って本当?」

吉備真備は奈良時代の学者ででもあり、政治家でもある人物です。遣使としてへ行き、日本に戻ってからは地方豪族の出身でありながら右大臣まで上った人物でもあります。

吉備真備像
出典:Wikipedia

そして現在は岡山の出身ということで、桃太郎との関係がクローズアップされていたり、陰陽道の第一人者と政治とは違う部分でも注目されている人物でもあるようです。

この記事では吉備真備の歴史的な功績から、陰陽道の繋がりまで色々な角度から吉備真備という人物に迫ってみたいと思います。

吉備真備とはどんな人物か

名前吉備真備(下道真備)
誕生日695年
没日775年
生地備中国下道郡也多郷土師谷天原
(岡山県倉敷市吉備町)?
・大和国(奈良県)?
没地大和国?備中国?
配偶者不明
埋葬場所吉備塚古墳(伝承)・吉備地方

吉備真備の生涯をハイライト

吉備真備、皇国24功に選ばれている
出典:Wikipedia
  • 695年:備中国で生まれる
  • 716年:遣使として唐にわたる
  • 735年:日本に帰国する
  • 738年:右衛士督となる
  • 743年:皇太子阿倍内親王(孝謙天皇)の教育に当たる
  • 746年:「吉備」の姓を名乗りはじめる
  • 752年:再度遣唐使として唐に渡る
  • 754年:鑑真を伴って日本へ帰国するも太宰大弐として九州に下向する
  • 764年:造東大寺長官に任じられ帰京する
  • 766年:称徳天皇時に右大臣に任じられる
  • 775年:吉備国か大和国で死去。享年81歳

遣唐使として唐に留学していた

遣唐使の画
出典:Wikipedia

吉備真備は遣唐使として2度唐に渡っています。最初の遣唐使は716年に選ばれ阿倍仲麻呂や玄昉らと渡唐し、18年間唐で勉強しました。この時に経書や史書、天文学・音楽・兵学などを学び日本に持ち帰っています。唐では知識人として名を残しており、留学生の中で唐で才覚を表したのは、阿倍仲麻呂と吉備真備だけだといわれています。

阿倍仲麻呂、唐で出世するが生涯大和に帰ることができなかった
出典:Wikipedia

その後帰国し唐からの知識を重要視した政府の方針から、異例の大出世をします。しかし藤原仲麻呂が台頭すると、中央政界からは一旦遠ざかり遣唐使に任じられています。2度目の入唐では鑑真と共に日本に帰京し仏教の普及に多大な貢献を残すこととなりました。

2度目の遣唐使の任命は左遷と従来認識されていましたが、近年は当時の仏教の必要性から敢えて選ばれたのではないかという説もあります。

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玄昉と共に異例の出世を遂げる

吉備真備は史書「東観漢記」をもたらした
出典:Wikipedia

吉備真備は734年に玄昉と共に日本に戻り、翌年に書物を持って帰京しています。そして史書・経書・天文歴書・音楽書・弓・矢などをもたらしました。これは日本にとっても非常に貴重なものであり、日本の文化向上に大きな貢献となったのです。

この時に従八位下だった位が、一挙に十階昇進して正六位下という異例の昇進を遂げ、大学助という官僚育成機関を行う役職に任官されました。

玄昉僧正像
出典:Wikipedia

同じ時期に日本に帰朝した玄昉も、経論5000巻の一切経と仏像を日本にもたらし僧正に任命され、内裏で仏教行事を行う内道場に入っています。その後聖武天皇の母・藤原宮子の病を祈祷により治し、賜物をうけ政治的にも重用されるようになります。

このように、吉備真備・玄昉は唐の文化を日本にもたらし、知識を広めるための重要な人材として各方面で重用されたのでした。

吉備真備は桃太郎の子孫だった?

桃太郎は現在も絵本で親しまれている
出典:Wikipedia

吉備真備は桃太郎のモデルとなった「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」の弟「稚武彦命(わかたけひこのみこと)」といわれています。伝承によると古墳時代に「温羅(うら)」と呼ばれる鬼が異国から渡来して、吉備地方に鬼ノ城を拠点とし支配していました。

孝霊天皇、吉備真備は孝霊天皇の子孫ということになる
出典:Wikipedia

そのために吉備地方の人々が大和王権にその粗暴を訴え、崇神天皇(第10代天皇)は孝霊天皇(第7代天皇)の子である吉備津彦命を派遣したといわれています。

吉備津彦命は吉備津神社のご祭神となっている
出典:Wikipedia

そして温羅は吉備津彦命に討伐され「吉備冠者」の称号を吉備津彦命に献上しました。この吉備津彦命の異母弟の子孫が吉備真備です。そして時代が下って室町時代末期には現在知られる「桃太郎」が物語として登場し、現在も物語として読み継がれるようになったのでした。

吉備真備は陰陽道の祖だった?

今昔物語に吉備真備の陰陽道の説話が収録されている
出典:Wikipedia

吉備真備は陰陽道の祖だったといわれています。元来呪術は「呪禁師(じゅごんし)」というまじない師が行っていましたが、吉備真備が「呪禁師」を廃して「陰陽道」を採用し、まじないの類は陰陽道の仕事となったそうです。吉備真備は唐から陰陽道の聖典「金鳥玉兎集」を持ち帰り、阿倍仲麻呂の子孫に伝えようとしたことから始まったといわれています。

平安時代初期の「続日本記」には既に吉備真備の陰陽道の話が載せられており、平安時代中期に書かれた「今昔物語」には、吉備真備の陰陽道の説話が収録されているところから、平安時代には吉備真備=陰陽道というイメージが定着していたようです。そして中世の「愚管抄」には“吉備真備は陰陽道の始祖”と書かれています。

浮遊の術を使う吉備真備の画
出典:Wikipedia

説話によると、帰国してからも呪術師として活躍し“飛行の術”で驚かしたというエピソードが紹介されています。また妬んで怨霊化した藤原広嗣を、吉備真備が陰陽道で鎮魂に成功するという話も残っているのです。

平安時代の有名な陰陽師・安倍晴明も吉備真備の書物で陰陽道を習得した
出典:Wikipedia

平安時代の有力な陰陽師だった安倍晴明は“吉備真備の書物”で陰陽道を学び、奥義を習得したといわれています。そして宿敵の蘆屋道満に、吉備真備の書物を盗まれたりもしています。それほど真備が残した書は、陰陽道にとっての極意が記されているものであることが想定され、阿倍仲麻呂の子孫の安倍晴明が持っていたことも感慨深く感じられます。

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日本に初めて孫子の兵法を伝えた

ナポレオンや徳川家康も愛読していたというから驚きだ
出典:Wikipedia

現在でも多くの人に支持されている“孫氏の兵法”を、初めて日本に伝えたのが吉備真備といわれています。戦争に勝つための兵法で、中国では諸葛孔明や曹操、フランスではナポレオン、日本では徳川家康や武田信玄が愛読したといいます。

はっきりと真備が伝えたと記録があるわけではありませんが、孫子の兵法が登場するのが「続日本書紀」での真備が行った軍隊教育のページに記されているそうです。また真備は後年の藤原広嗣の乱でもこの兵法を駆使して勝利を収めたといわれています。

吉備真備の功績

功績1「地方豪族から異例の出世を遂げたこと」

聖武天皇、吉備真備を重用した
出典:Wikipedia

吉備真備は地方豪族でありながら、異例の出世を遂げました。奈良時代の政界は皇族と藤原氏が占めており、官位を得るには身分の壁が厚い時代でした。当時日本は唐の律令国家を模範とした国づくりを目指しており、遣唐使から戻ってきた真備の知識は非常に重宝されました。

孝徳天皇は、幼少期の先生もしていたこともあり真備を右大臣に抜擢している
出典:Wikipedia

そのため聖武天皇に重宝され、異例の出世をしています。途中藤原仲麻呂によって左遷されたりもしますが、藤原仲麻呂と対立する称徳天皇に取り立てられ最終的に右大臣まで上り詰めました。学者から右大臣まで出世したのは日本史上、菅原道真と吉備真備だけであり自分の才能で出世した人物の走りといえるでしょう。

功績2「色々な日本の“元祖”といわれていたこと」

カタカナの発明者といわれている
出典:Wikipedia

吉備真備は日本に唐からの文化を伝えると同時に、先述の陰陽道の祖以外にも、カタカナの発明者であり、囲碁の元祖と長らくいわれていました。

真備は日本に帰ってきたときに、囲碁を持ち込んだといわれてきました。しかし近年では「魏志倭人伝」にに囲碁と双六が出ているので、実際は違うものの長らく囲碁の元祖と思われてきたようです。実際に囲碁はかなりの腕前だったといいます。

唐の囲碁名人と対局する吉備真備の画
出典:Wikipedia

ただし囲碁は名人の石を飲んで唐の囲碁名人に勝利したという驚くべき逸話が残っています。真意はともかく、大国唐の囲碁名人に皇帝の前で勝利したという説話は昔の人に非常な印象を与えたらしく、長らく“囲碁の祖”といわれるようになったといわれたようです。

また唐から哀晋卿(えんしんけい)という少年を連れて帰り、日本が以前から使っていた「呉音」を「漢音」に改めようと努力し、「カタカナ」を作ったいわれています。そのためそれにちなんで岡山の吉備真備公園にはカタカナを彫った丸石がのった亀の像があります。

吉備真備公園のカタカナを乗せた亀の像
出典:岡山の街角から

近年元祖でないとわかったものもあったとしても、長らく日本では“吉備真備が元祖”と信じられており、それだけの功績を残したと認識されていたからの結果と考えられるのではないでしょうか。

功績3「仏教の普及に多大な貢献を残したこと」

鑑真上人像、生前は4万人以上の人々の授戒をしたという
出典:Wikipedia

吉備真備は二度目の渡唐で、鑑真と共に帰朝し日本に律を伝えたといいます。鑑真が来日したことにより、日本は中国と同じく戒律を修めて僧となる仕組みが整っていくことになります。

鑑真は渡日後に東大寺に戒壇を作り、聖武天皇や称徳天皇などを筆頭に、日本の人々に初めて戒律を授けています。その後唐招提寺を本拠に構えて戒律研究に専念し、教えは今日も続いているそうです。現在も続く仏教界に大きく影響を及ぼす功績を残したことは、間違いなく吉備真備の功績の一つといえそうです。

吉備真備の残した言葉

文屋浄三、天武天皇の孫で吉備真備が皇位に推した人物だった
出典:Wikipedia

「長生の弊、却りて此の恥に合ふ(長生きした為に、とんだ恥をかいてしまったことよ)」

吉備真備の言葉で、有名な一言です。称徳天皇が崩御した後の後継者争いに敗れた際にいった言葉として後世の歴史書「水鏡」に記されています。しかし「続日本書紀」には記されていないため、最近は後世の創作ではないかとも考えられているそうです。

吉備真備の人物相関図

吉備氏の家系図
出典:ぽんちゃんからの伝言
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