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島原の乱(天草一揆)とは?原因や中心人物、経緯をわかりやすく解説

「島原の乱ってどんな一揆だったの?」
「天草四郎が参加した一揆よね?」

島原の乱は江戸時代に起きた肥前島原(現:長崎県)と天草島(現:熊本県)でキリシタンを中心に農民が起こした一揆です。この事件は日本史上最大規模の一揆でもあり、幕末以前の最後の内乱でもありました。

島原の乱の戦いの様子
出典:上天草市ホームページ

島原の乱ではキリシタンや農民などが結束し約37000人もの人が一揆に参加していますが、何故乱は起こったのか?どういった経緯があったのかなどこの記事では島原の乱を出来るだけわかりやすく解説していきます。

島原の乱(天草一揆)とは?

一揆軍が籠城した原城跡
出典:Wikipedia
交戦戦力徳川幕府一揆軍
年月日1637年10月25日から1638年2月28日(旧暦)
指揮官松平信綱天草四郎(益田時貞)
板倉重明有家監物
山田右衛門作
戦力約125,000人男女合わせて約37,000人
実戦参加者約13,000人
浪人40人
死傷者約8000人以上全滅
結果一揆軍全滅により幕府軍の勝利

島原の乱は別名島原・天草の乱とも呼ばれ、キリシタンを中心とした農民によって起こった一揆でした。約37,000人が参加した日本史上最大の内乱であるこの戦いがどんな一揆だったのかを解説します。なおこの記事では、以下“島原の乱”の名称を使用します。

キリシタンによる幕府への一揆だった

一揆に参加した多くの人がキリスト教徒だった

島原一揆の特徴は、住民の多くがキリスト教に入信していたことです。そして以前の領主だった有馬氏や小西氏に仕えていた浪人も乱に参加しています。

苛烈なキリシタンの弾圧と島原地方の過酷な年貢や税の取り立てに反発し、キリシタンの中でカリスマ的な人気を誇った小西家の浪人出身の天草四郎(益田時貞)を一揆軍の総大将としました。とはいえ天草四郎はまだ10代の少年であり、実際の計画・指揮は浪人・庄屋が行って一揆軍を率いていたといいます。

天草四郎が使ったといわれる旗印
出典:Wikipedia

しかしお飾りとはいえ総大将である天草四郎は、「額に小さな十字架を立てて一揆軍を指揮していた」といういで立ちで一揆軍を先導していたといわれています。こういった証言からも、キリスト教信者以外も参加していたとはいえ、かなり宗教色が強い一揆だったことがわかるのです。

日本史上最大の一揆でもあった

37,000という人数が参加した一揆は今までになかった
出典:今日のとこあれこれと…

島原の一揆には島原と天草の領民の多くが参加し、総勢37,000の日本史上最大といわれる一揆となりました。特に島原は乱が終わった後に全滅となった村が多数出るほどの人員が参加したのです。

当初幕府は板倉重昌を総大将に周辺の大名を集め討伐軍を結成しますが、約半年という長期戦となり幕府側・一揆側共に多くの死傷者を出した内戦となりました。鎮圧に半年近くかかった一揆は今までになく、日本史上最大の一揆といわれるようになったのです。

島原の乱の結末は?

乱の後は多くの人が処刑された

島原の乱は幕府軍の総攻撃とその後の処刑で最終的に籠城した約37,000人はほぼ全員死亡し、生き残ったのは幕府と内通していた山田右衛門作のみだったといわれています。幕府軍は一揆軍を斬首し記録によると、

「あまつさえ童女の輩に至りては、喜びて斬罪を蒙むりて死なんとす、是れ平生人心の致すところに非らず、彼宗門に浸々のゆえ也」

つまり女性や子供に至るまで喜んで斬首されたといっています。殉教を重んじるキリシタンの信仰ゆえに皆喜んで死を受け入れた事がわかるものです。こうして幕府はキリシタンの信仰の深さから、キリシタン信仰の徹底排除が加速していくこととなります。

隙を見て投降する農民も多かったともいわれる

ただし幕府の総攻撃の前に多くの投降者や脱出者が出ていたともいわれ、実際はもう少し死者数が少ないという説もあります。理由は参加した農民が全てキリシタンだったわけでなく、キリシタンでは無いものの強制され参加していた農民や、戦火を逃れるために参加した農民も多かったからです。

海から見た島原城跡、この崖を降りて逃げた人もいたという
出典:Wikipedia

記録によると正月大晦日に水汲みを口実に投降するもの、原城の断崖絶壁から降りて逃げて助かった人もいたといわれています。そうして幕府軍に投降し生き残った人は1万人以上いたともいわれていますが、正確な人数の記録は残っていません。

島原の乱が起こった原因

島原の乱が起こる背景は非常に根深い理由がある

日本史上最大といわれた島原一揆が起こったのは、もちろん色々な民衆の不満が蓄積されて起こったものでした。島原の乱の原因は何だったのか?見ていきます。

キリスト教徒迫害への不満があった事

キリシタンへの拷問の様子、画は足の上に載せた木に人が乗る拷問をしている
出典:キリスト教殉教者記念研修会館

原因の一つに島原領主の松倉重政が、苛烈なキリシタン弾圧を行ったためといわれています。島原ではキリシタンの弾圧は1627年から始まったといわれており、改宗を拒んだ領民は“雲仙地獄”に送られ激しい拷問と処刑が行われました。

雲仙地獄は現在では有名な観光地だが悲しい歴史があった
出典:skyticket

雲仙地獄に連れてこられると、熱湯を使った拷問が行われました。熱湯の中に漬けては上げてを繰り返したり、柄杓で掬った熱湯を少しづつかけていくという残酷な方法だったそうです。その他にも数多くの残酷な方法でキリシタンの弾圧しています。雲仙地獄での拷問は1631年まで続けられました。

踏み絵を領民に踏ませキリシタンではないかを確認した
出典:Wikipedia

そして同じ頃に踏み絵も始まりました。踏み絵を拒むものは処刑されましたが、表向きは踏み絵を踏んで仏教徒を装い、内心キリスト教を信仰する「潜伏キリシタン」が増えていきました。こうしたキリシタンへの弾圧行為に潜伏キリシタンの中に、残虐な拷問や処刑を繰り返す領主への憎悪が蓄積されていったのです。

領民への重税と飢饉による飢餓のため

島原城の改築した結果多くの課税が領民を待っていた
出典:Wikipedia

島原・天草の領主である松倉勝家や寺沢堅高の百姓への酷使があげられます。特に島原藩の松倉勝家は島原城改築などを理由に過重な年貢を取り立てました。実際は4万石程度の土地を10万石と見積もり、領民に10万石相当の税と労役を課したといいます。

その上1634年から飢饉が起こり農作物の不作が続きますが、松倉勝家は人頭税や住宅税などありとあらゆるものに税をかけて領民から税を取り立てました。そして年貢が納められない農民や、村の責任者である庄屋から娘や妻を人質に取るようになったといいます。

ポルトガル人の記録にも如何に残酷だったかが記録されていた

年貢が納められないものには、厳しい拷問と処刑が待っていました。ポルトガル人の記録によると人質となった娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を“蓑踊り”と呼んでいたといいます。

このような重税と飢饉が起こっても対策をするどころかあらゆる課税をし、残虐行為をする領主への不満は最高潮に達して島原の乱が起こったのです。

島原の乱における幕府側主要人物

原城を囲む幕府軍の配置図
出典:Wikipedia

松倉勝家

松倉勝家像
出典:日本史あれこれ

肥前国島原藩の第2代目当主です。父の重政と共に悪政を敷き、島原の乱を引き起こしました。城の改築や参勤交代の費用などのために重税を課し、納められない者には惨い拷問と虐殺をしたといわれています。

乱の後は幕府側の調査を受け、屋敷にある桶の中から農民と思われる死体を発見。これが決め手となり乱を起こした失政の罪として斬首刑に処されました。武士に与えられた最後の名誉である切腹も許されず、罪人として斬首になることは非常に異例であり江戸時代に斬首された唯一の大名となりました。

松平信綱

松平信綱像
出典:草の実堂

老中であり島原の乱の時に、総大将として乱の鎮圧をしました。当初、総大将は板倉重昌でしたが、1638年1月1日に戦死。そのため代わって総大将となったのでした。総大将に就任後は兵糧攻めをしたため、2月28日に原城は陥落し天草四郎の首実検をしさらし首にしました。その後松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任があるとして処罰しています。

宮本武蔵

宮本武蔵も実は討伐軍に参加していた
出典:Wikipedia

江戸時代初期の剣術家ですが、乱の討伐軍に参加していたといいます。乱の後に宮本武蔵が有馬直純に送った書状によると、

「敵の落とした石に当たって、脛も立てないでいる」

と書いてあり、負傷したことがわかっています。天才的な剣技も、敵の投石攻撃には近づくことが出来ずに存分に力を発揮できなかったようです。

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