1638年1月:オランダ船による原城攻撃と兵糧攻め
1月6日に長崎奉行の依頼を受けオランダ商館船が大砲を幕府に提供、そして海から城内に艦砲射撃を行いました。この攻撃は、破壊効果自体はあまり高くなかったのですが、ポルトガルからの援軍を期待していた一揆軍の戦意を削ぐことに成功しています。当時オランダは、日本の貿易からポルトガルを排除したいと考えており、そういった思惑もあっての援助だったといわれています。
兵糧攻めにより一揆軍は食料がつき、崖を降りて海に降り海藻を取って食べていたといいます。幕府軍は城外に討って出た一揆軍の死体の胃を検分した結果、胃に海藻しか無かったために兵糧がつきかけていることを悟ったそうです。
兵糧攻めの間幕府軍は矢文を原城内に送り、キリシタンでなく強制で一揆に参加させられている者は助命すると投降を呼びかけていますが、成功しませんでした。背景に山田右衛門作のように妻子を人質に捕られている者もいたと考えられています。また天草四郎の母と姉妹に投降を呼びかける文書を書かせていますが、これも一揆軍は拒否しました。
1638年2月:原城落城
2月24日に諸将が集まり会議をしています。会議では兵糧攻めを続ける案と総攻撃をかける案とで意見が分かれますが、長引くと幕府の威信にかかわると判断し、総攻撃が決定しました。
総攻撃は2月28日を予定していましたが、鍋島勝茂が抜け駆けで前日に攻撃を開始。それに続いて諸大名も攻撃を開始し総攻撃となりました。兵糧攻めで食料も弾薬も底をつき、一揆軍は疲弊していたため原城はついに落城。
天草四郎は殺され、一揆軍は皆殺しに合い乱は鎮圧されました。乱に参加した人は男女関係なく斬首されています。そのため島原半島の南部と天草諸島のキリシタンは、僻地にいて乱への参加を免れた地域以外根絶やしにされました。乱へ参加せず生き残ったキリシタンも「隠れキリシタン」となっていきました。
島原の乱が与えた影響は?
島原の乱は当時の江戸幕府に衝撃を与え、幕府は多くの対策を打ち出しています。ここでは島原の乱が与えた影響を解説します。
本格的に鎖国を始める
島原の乱が決め手となり大きな影響を及ぼしたのは「鎖国」です。鎖国政策は1639年から1854年まで200年以上続けられることとなりました。鎖国することによりキリスト教の布教を防ぐことと、貿易を管理することが目的でした。
乱が終わった後、幕府はポルトガルとの交易を閉鎖することを決めます。そして1639年に正式にポルトガルと交易を閉鎖し、代わりにオランダを主体に貿易することとなりました。この際に幕府はオランダに、布教活動を一切しないことを約束させています。
キリシタンの取り締まりの強化
幕府はキリスト教は徳川幕府を揺るがす元凶と考え、キリスト教の布教活動が行われないように強化しました。具体的にはキリシタンを発見できるように密告したものに報酬を与えるようにしたり、踏み絵を徹底したりしています。また、キリシタンに対する苛烈な拷問は継続して行われることとなりました。
島原の乱の後、領主が2回変わり最後は幕府の天領となりました。そして鈴木重成が初代代官となり、禅の思想を普及させることでキリシタン信仰に対抗できると考えました。そのため曹洞宗の僧侶となっていた兄の鈴木正三を招き、住民への教化に努めています。
廃城の取り壊しの徹底
幕府は原城跡を含め、1638年に「城割(しろわり)」「破城(はじょう)」と呼ばれる廃城の取り壊しを命じています。一揆や郎党に再利用されることを防ぐためでした。
具体的には建物の破壊はもちろんのこと、石垣・切岸の一部破格と石垣・土塁の撤去、外堀・内堀の埋め立ても命じています。
島原の乱を覚えるための語呂合わせを紹介
島原の乱が起こったのは1637年ですが、学校のテストで問題に出されることもあるのではないでしょうか?そこで代表的な語呂合わせを紹介します。有名なもので、
「無残な原城のブツならオラのだよ」
むざんな(1637年)、原城、松平信綱(のブツな)、オランダ船砲撃(オラ)が入っています。これで年・城・総大将・協力国が覚えられます。良くできてますね。
島原の乱を題材にした作品を紹介
島原の乱 キリシタン信仰と武装蜂起 (講談社学術文庫)
島原の乱の本では一番よく見る本です。キリシタンのことから蜂起までの道程や、島原の乱での戦いの詳しい様子など、マルチに収録されている本です。まず「島原の乱」を知りたいという方は、買って間違いの無い本です。
島原の乱とキリシタン (敗者の日本史)
個人的に筆者一押しの本です。歴史を“敗者の視点”から迫っています。キリシタン迫害の実態や、何故一揆が起こり何故一揆軍が敗れたのかなど、最新の研究結果を交えながら歴史で習わない歴史の裏を違う角度から切り込んだ一冊です。
島原の乱に関するまとめ
いかがでしたでしょうか?日本でも激しい宗教戦争があったことに驚いた方もいらっしゃるのではないでしょうか。筆者は個人的に島原の乱を含めた鎖国への歴史背景に興味があるので、今まで調べていた内容を形にすることが出来て嬉しく感じています。
島原の乱のような“歴史の負の部分”を見直すことも、私たちには必要に感じています。そうして日本史というものを改めて知れるのではないかと考えています。この記事を読んで、歴史の授業では習わない部分を含めて島原の乱を知っていただけたらこれ以上の光栄はありません。最後まで読んでいただきありがとうございました。