島原の乱(天草一揆)とは?原因や中心人物、経緯をわかりやすく解説

キリスト教徒迫害への不満があった事

キリシタンへの拷問の様子、画は足の上に載せた木に人が乗る拷問をしている
出典:キリスト教殉教者記念研修会館

原因の一つに島原領主の松倉重政が、苛烈なキリシタン弾圧を行ったためといわれています。島原ではキリシタンの弾圧は1627年から始まったといわれており、改宗を拒んだ領民は“雲仙地獄”に送られ激しい拷問と処刑が行われました。

雲仙地獄は現在では有名な観光地だが悲しい歴史があった
出典:skyticket

雲仙地獄に連れてこられると、熱湯を使った拷問が行われました。熱湯の中に漬けては上げてを繰り返したり、柄杓で掬った熱湯を少しづつかけていくという残酷な方法だったそうです。その他にも数多くの残酷な方法でキリシタンの弾圧しています。雲仙地獄での拷問は1631年まで続けられました。

踏み絵を領民に踏ませキリシタンではないかを確認した
出典:Wikipedia

そして同じ頃に踏み絵も始まりました。踏み絵を拒むものは処刑されましたが、表向きは踏み絵を踏んで仏教徒を装い、内心キリスト教を信仰する「潜伏キリシタン」が増えていきました。こうしたキリシタンへの弾圧行為に潜伏キリシタンの中に、残虐な拷問や処刑を繰り返す領主への憎悪が蓄積されていったのです。

領民への重税と飢饉による飢餓のため

島原城の改築した結果多くの課税が領民を待っていた
出典:Wikipedia

島原・天草の領主である松倉勝家や寺沢堅高の百姓への酷使があげられます。特に島原藩の松倉勝家は島原城改築などを理由に過重な年貢を取り立てました。実際は4万石程度の土地を10万石と見積もり、領民に10万石相当の税と労役を課したといいます。

その上1634年から飢饉が起こり農作物の不作が続きますが、松倉勝家は人頭税や住宅税などありとあらゆるものに税をかけて領民から税を取り立てました。そして年貢が納められない農民や、村の責任者である庄屋から娘や妻を人質に取るようになったといいます。

ポルトガル人の記録にも如何に残酷だったかが記録されていた

年貢が納められないものには、厳しい拷問と処刑が待っていました。ポルトガル人の記録によると人質となった娘や子供に藁蓑を着せて火をつけ、もがきながら焼死する姿を“蓑踊り”と呼んでいたといいます。

このような重税と飢饉が起こっても対策をするどころかあらゆる課税をし、残虐行為をする領主への不満は最高潮に達して島原の乱が起こったのです。

島原の乱における幕府側主要人物

原城を囲む幕府軍の配置図
出典:Wikipedia

松倉勝家

松倉勝家像
出典:日本史あれこれ

肥前国島原藩の第2代目当主です。父の重政と共に悪政を敷き、島原の乱を引き起こしました。城の改築や参勤交代の費用などのために重税を課し、納められない者には惨い拷問と虐殺をしたといわれています。

乱の後は幕府側の調査を受け、屋敷にある桶の中から農民と思われる死体を発見。これが決め手となり乱を起こした失政の罪として斬首刑に処されました。武士に与えられた最後の名誉である切腹も許されず、罪人として斬首になることは非常に異例であり江戸時代に斬首された唯一の大名となりました。

松平信綱

松平信綱像
出典:草の実堂

老中であり島原の乱の時に、総大将として乱の鎮圧をしました。当初、総大将は板倉重昌でしたが、1638年1月1日に戦死。そのため代わって総大将となったのでした。総大将に就任後は兵糧攻めをしたため、2月28日に原城は陥落し天草四郎の首実検をしさらし首にしました。その後松倉勝家・寺沢堅高両名も一揆を招いた責任があるとして処罰しています。

宮本武蔵

宮本武蔵も実は討伐軍に参加していた
出典:Wikipedia

江戸時代初期の剣術家ですが、乱の討伐軍に参加していたといいます。乱の後に宮本武蔵が有馬直純に送った書状によると、

「敵の落とした石に当たって、脛も立てないでいる」

と書いてあり、負傷したことがわかっています。天才的な剣技も、敵の投石攻撃には近づくことが出来ずに存分に力を発揮できなかったようです。

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