島原の乱(天草一揆)とは?原因や中心人物、経緯をわかりやすく解説

島原の乱における一揆側主要人物

日本の宗教戦争といわれるようになった
出典:時代を語る歴史世界

天草四郎時貞

天草四郎時貞
出典:江戸ガイド

キリシタン大名小西行長の遺臣・益田好次の子で、父と共に長崎で洗礼を受けキリシタンとなりました。10代にして大きなカリスマ性があったといわれ、盲目の少女の眼を治したり、海の上を歩いたなど様々な奇跡を起こしたといわれています。

そのカリスマ性から島原の乱では「総大将」として担ぎあげられました。しかしあくまで戦意高揚の「お飾り的な大将」であったといわれ、実質的な指示は四郎の父などの大人たちが担っていたといいます。最後は肥後細川藩士陣佐左衛門に打ち取られ、首は出島の正面入り口前に晒されたといわれています。

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山田右衛門作

山田右衛門作住居跡、今は観光地となっている
出典:じゃらん

島原の庄屋であり、南蛮絵師でありました。天草四郎の副官として本丸を守備していたといいます。しかし幕府と内通していたために島原の乱で唯一の生き残りとなりました(諸説あり)。幕府と内通した理由は、妻子を一揆軍に人質に取られて仕方なく参加したといわれています。

非常に知識人であったために一揆軍に重宝され、四郎の側におかれ頼りにされていたそうです。皮肉にも一揆軍にとっては、幕府軍に重要な情報が流れていくこととなりました。しかし一揆軍内で内通が露見。妻子は斬られ、自身は有馬牢に入れられてしまっています。

天草四郎の旗印は山田右衛門作が描いたといわれている
出典:Wikipedia

その後幕府軍の総攻撃により城は落城。山田右衛門作も幕府兵に斬られそうになりますが、矢文を見せたことで助命されました。乱後は事情聴取のために江戸に連行され取り調べを受けています。その後はキリシタンの踏み絵を描いたりして江戸で暮らしたそうです。

有家監物

有家と一騎打ちをしたという老中・板倉重矩
出典:Wikipedia

キリシタン大名有馬氏に仕えていた浪人であり、キリシタンでした。乱の中では実質的な主導者で、天草四郎と同じく本丸大将でした。娘は天草四郎の妻だったといいます。最後は落城の時に板倉重矩と一騎打ちの末に討ち取られ、首は天草四郎と共に原城付近と出島に晒されました。

島原の乱の経緯を時系列で解説

島原の乱を描いた画
出典:JapaneseClass.jp

日本史上最大ともいわれた島原の乱。そんな約半年間にも及んだ乱の経緯を時系列に紹介していきます。

1637年10月:島原の一揆勃発

キリシタン大名だった有馬氏の家臣たちが乱を主導した
出典:戦国ヒストリー

過酷な年貢の取り立てに限界を感じた島原の領民たちは、旧有馬藩の浪人で地域の主導者になっているような人物たちの元で組織化し、反乱の計画を立てるようになります。そして湯島(談合島)で会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的存在だった天草四郎を総大将とすることを取り決めています。

そして事の発端は1637年10月25日、島原南部の住民が代官を殺害して乱が勃発。事件の原因は、惨い年貢の取り立てとキリシタンの取り締まりが再開されるためといわれています。島原の乱が起こる少し前に臨月の女性を“水牢”に閉じ込め、女性は牢の中で子供を出産し母子ともに亡くなる事件が起きています。

信徒が持っていたデウスの絵を焼き捨てた代官を殺害したのが始まりだった

そして10日ほど前からキリシタンの取り締まりが活発化しており、住民が隠し持っていたデウス(神)の絵を代官が焼き捨てたことに逆上して信徒が殺害に至ってしまいます。後戻りできなくなった住民は次々に寺社を焼いていき、27日には島原城下を放火し一揆は島原全域へと広がっていきました。

1637年12月:天草四郎も一揆し原城へ籠城する

現在富岡城跡は天草切支丹館となっている
出典:Wikipedia

同じころ天草四郎出身地の大矢野島を中心に蜂起し、応援に来た島原兵と力を合わせて本渡城などの天草支配の拠点を攻撃。11月14日には本渡の戦いで富岡城代の三宅重利を討ち取り、その勢いで富岡城も攻撃しますが、本丸を落とせず落城できませんでした。

この時に天草でキリシタンになることを強制された「新キリシタン」と呼ばれる村々は戦線離脱し、島原でも一部の地域が藩側につくものも現れたといわれています。こういった人たちが討伐軍の情報源になった一面もあったようです。

現在の原城跡
出典:Wikipedia

討伐軍が向かってきていることを知った一揆軍は、有明海を渡り島原半島に移動。旧藩主有馬家の居城であった廃城・原城に籠城しました。ここで島原と天草の一揆軍が合流、約37,000人もの規模になったといいます。

1637年12月:幕府軍2度攻めるが失敗

副将とされた戸田氏鉄
出典:Wikipedia

乱の発生を知った幕府は、上使として板倉重昌、副使として石谷貞清を任じ鎮圧に向かわせます。重昌は九州諸藩兵をまとめて討伐軍を結成。原城を包囲し総攻撃しますが、12月10日、20日2回に失敗しています。

事態を重く見た幕府は総大将として松平信綱、副将として戸田氏鉄を派遣します。功を松平信綱に取られると焦った重昌は、1月1日に信綱が到着する前に強引に総攻撃を開始。しかし連携が上手く取れていないこともあり、約4000人の被害者を出し、重昌も鉄砲が直撃し戦死してしまいます。

討伐軍には甲賀忍者も動員されていた
出典:Wikipedia

松平信綱を迎えた討伐軍は約12万人にまで膨れ上がり、陸と海の両方から挟み撃ちを試みます。討伐軍の中には甲賀忍者もおり城の中に潜入し、兵糧が少ないことを突き止めています。この情報により討伐軍は兵糧攻めに決めたといわれています。

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