足利義政とはどんな人?銀閣寺との関係や応仁の乱についても紹介

足利義政にまつわる逸話

逸話1「勇猛に育つよう期待されていたが真逆の将軍になってしまった」

義政の兄で早世した7代将軍 足利義勝の木像
出典:Wikipedia

義政はもともと「義成(よししげ)」と名乗っており、この名には「義政が勇猛な将軍に育つように」との想いが込められていたと言います。

義が将軍になった時の名「義成(よししげ)」。「義」と「成」の字にはともに、武器である「戈(ほこ)」の字が組み込まれているため、勇猛な武断派の将軍になるよう期待されての命名だったのです。

義政は長男ではなかったので、本来は将軍になるはずではなく、もともとは出家させられる予定でした。しかし、父の義教が嘉吉の変で暗殺され、兄が10歳で急逝したためエスカレーター式で将軍になってしまいました。こうして将軍になった義政には、将軍権威を取り戻すための大きな期待がかけられていたのでしょう。

しかし、成長した義政は勇猛とは真逆のインテリ将軍となり、東山文化の担い手となったのでした。天性の温和な性格で、争いごとを好まない人物だったのかもしれません。

逸話2「応仁の乱への無関心な姿勢」

応仁の乱勃発地にある石碑
出典:Wikipedia

応仁の乱の最中に将軍らしからぬ態度で、乱には無関心を決め込んでいた義政。言うことを聞かない大名たちに嫌気が指し、酒宴に興じたり趣味嗜好ばかりに関心を示すようになり、無能な将軍ぶりを発揮していきました。

この時期に義政が詠んだ和歌「はかなくも なほ治まれと 思ふかな かく乱れたる 世をば厭(いと)はで」は、「義政自身が何もしなくても、ただただ乱が終息してくれると信じている」といった無関心な意思が込められているとも言われています。

応仁の乱を描いたもの
出典:Wikipedia

将軍らしからぬ無関心は態度は、東山文化の研究をしていた歴史学者からも「義政は乱世の将軍としては完全に落第であった、彼の政治は失政の連続で弁護の余地はない」と酷評されています。応仁の乱への無関心は、義政の将軍としての評価を大きく下げてしまったのです。

逸話3「東山山荘築造時に見せた意外な一面」

銀閣寺の遠景
出典:Wikipedia

応仁の乱に無関心だった時とはガラリと変わり、東山山荘を築造する際の義政は、非常に情熱的な姿勢を見せていました。

文明13年(1481年)、東山山荘の築造に早く着手したかった義政は、夫婦で暮らしていた邸宅から逃げ出して、諸大名を驚かせるという珍事を起こしています。

義政が邸宅から抜け出した理由については諸説あるのですが、当時の記録では「命令を聞かない諸大名に愛想をつかした」「正室の富子のと不仲が原因」と推測されています。しかし、真意としては東山山荘の造営に一国も早く着手するためだったという見方もあります。実際に文明14年(1482年)には着工しており、その翌年には東山山荘へ移り住んでいました。

銀閣寺境内にある東求堂(とうぐどう)
出典:Wikipedia

義政の東山山荘築造への情熱は凄まじく、見取り図を片手に職人たちへ細かに指示を出したり、建物に掲げる額名も、書の達人に何案も提出させ、細かな字体にまでこだわったと伝わっています。

山荘築造には周囲の強い反発もあったようですが、それでも義政の意思は変わりませんでした。将軍職で見せた腑抜けな態度とは打って変わって、東山山荘の築造には自身の意見をしっかりと持ち、これまでとは違った一面を見せたのです。

足利義政の年表

1436年 – 1歳「足利義政誕生」

義政は永享8年(1436年)1月2日、室町幕府第6代将軍 足利義教と側室の日野重子の間に生まれました。幼名は三寅で、のちに三春と名乗ります。義政は長男ではなかったので、将軍の後継者候補からは外されており、出家して僧侶になる予定でした。

1449年 – 14歳「室町幕府8代将軍に就任」

義政の父で6代将軍 足利義教の木像
出典:Wikipedia

義政は父や兄の急死で、8代目の将軍に繰り上げで就任した人物です。

義政の父 義教は「万人恐怖」と言われる恐怖政治を行った人物で、多くの人々に恐れられていました。ところが恐怖政治がわざわいし、宴の最中に家臣に襲撃され暗殺されてしまったのです。義教暗殺により、義政の兄が急遽7代将軍になりましたが、わずか8ヶ月後に急逝。こうして義政が8歳で次期将軍候補となり、文安6年(1449年)14歳で元服し、室町幕府8代将軍となったのです。

1464年 – 29歳「弟の足利義視を次期将軍に指名」

義政の後継者に指名されていた足利義視(よしみ)
出典:Wikipedia

義政は次の将軍として自身の弟を指名するのですが、この指名が応仁の乱へと繋がる大問題へと発展していくのです。

康正元年(1455年)義政は正室に日野富子を迎えます。しかし、義政・富子夫妻は後継者となる男の子になかなか恵まれませんでした。そこで義政は、出家していた弟の義視(よしみ)を次期将軍に指名。ところが、ほどなくして富子が懐妊。翌年には後の9代将軍となる義尚を出産したのです。これが応仁の乱の火種になりました。

応仁の乱勃発

「義政は弟の義視を次期将軍に指名、しかし富子は実子の義尚を将軍にしたい」。この意思の違いが応仁の乱の一つの原因です。

富子は自らが産んだ子 義尚を溺愛し、次期将軍にしたいと目論み、幕府の有力守護大名らに義尚のバックアップを依頼。しかし、先に将軍候補に指名されていたのは義視であり、ここに次期将軍を巡る対立構図ができ上りました。

この将軍家のお家騒動と同時に、畠山家や斯波家といった有力守護大名家でも後継者争いが発生しており、幕府を二分する大騒動へと発展。これに各地の守護大名も参戦し、義視派と義尚派に別れての大乱に繋がっていきました。以上が、約11年も続いた日本史上で最も不毛な争いと言われる「応仁の乱」の原因なのです。

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