文化人としては傑出した人物だった
足利義政は、東山山荘で文化を発展させた将軍でもありました。応仁の乱への対応では、将軍らしからぬ行動で無能のレッテルを貼られてしまったのですが、文化人としては非常に高く評価されているのです。
晩年の義政は自分の隠居所(東山山荘)を造営。山荘の庭園や建築様式にも徹底してこだわり抜きました。この山荘で義政は、茶道や華道、和歌や能などに熱中。義政の隠居所はいつしか文化の発信地となり、上記の芸術文化が一般庶民にまで広まっていったのです。
以上の芸術文化の発信地が義政の東山山荘だったため、この文化を「東山文化」と言います。将軍としては悪評の多い義政でしたが、文化人としては日本の歴史に偉大な足跡を残しました。
足利義政の功績
功績1「銀閣寺を建立した」
足利義政は銀閣寺を創建した人物として有名です。
銀閣寺はユネスコの世界文化遺産に登録されており、今も国内外問わず多くの観光客に愛されています。また修学旅行の定番スポットでもあり、その名を知らない日本人はほとんどいません。
銀閣寺は「東山山荘」の一部で、正式名称を「慈照寺(じしょうじ)」と言い、義政が将軍を辞めた後の隠居所として築造されました。創建当時はたくさんの建物があったのですが、現在は銀閣寺と東求堂(とうぐどう)の2つの建造物だけが残っています。
創建から500年以上経った今でも、多くの人々に親しまれている銀閣寺を建てたのは、義政の大きな功績のひとつです。
功績2「わび・さびの文化”東山文化”を創出」
義政は、茶道や和室などの「和」の文化を確立した人物です。
隠居した義政が東山山荘(銀閣寺)で茶道や華道にのめり込み、茶道、華道、能、連歌、庭園、建築に至るまで、東山山荘が発信地となって一般庶民にまで浸透していったのは、すでに述べた通りです。
上記を「東山文化」と呼び、現在では「わび・さびの文化」と評価されています。現代人がイメージする「日本らしいもの」は、東山文化が原点になっているものが多く、特に畳、障子、襖、床の間から構成される「和室」は東山文化から生まれたものです。他にも、「日本庭園」や「茶道」といったものも東山文化によって原点が確立されました。
決して派手ではありませんが、質素ながらも美しい日本らしさを醸し出す「わび・さび」の東山文化。その出発点や象徴が東山山荘(銀閣寺)であり、その担い手が足利義政だったのです。
足利義政の辞世の句
何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし
これは足利義政が死の間際に詠んだ和歌です。現代の言葉にすると「死にゆく自分には全てが夢か幻のように思える。今は悲しみも喜びもない」といったような意味になります。本来は将軍になる立場ではなかったにも関わらず繰り上げで将軍になってしまい、応仁の乱で翻弄された人生を振り返り、一種の無常観を感じているかのような印象ですね。
足利義政の人物相関図
足利義政の後継者候補を争った義視と義尚。義視には細川勝元、義尚には山名宗全といった有力な守護大名が味方しました。応仁の乱は将軍候補を誰にするかだけに留まらず、全国の有力守護大名を巻き込んでの大乱へと発展していったのです。