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足利義政とはどんな人?銀閣寺との関係や応仁の乱についても紹介

「足利義政はどんな人?」
「足利義政は何をした人なの?」
「足利義政が残した文化や銀閣寺について知りたい」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?足利義政は室町幕府の8代将軍で、応仁の乱の原因を作ったにも関わらず何一つ有効な手だてを講じられないまま、まるで他人事のように振る舞っていた人物です。彼は日本の歴史上でも特に無能な将軍といった、不名誉なレッテルが貼られています。

室町幕府8代将軍 足利義政の肖像画
出典:Wikipedia

その一方で、晩年には東山山荘を築き東山文化を創出、「わび・さび」の価値観を確立しました。この東山山荘の一部が、現在も多くの人に愛される京都の観光地「銀閣寺」なのです。

この記事では、そんな足利義政の功績、応仁の乱の原因になった後継者問題、彼が残した文化や銀閣寺などをご紹介します。

足利義政とはどんな人物か

名前足利義政
役職室町幕府8代将軍
誕生日永享8年(1436年)1月2日
没日延徳2年(1490年)1月7日
生地京都某所
没地京都某所
配偶者日野富子
埋葬場所京都市上京区相国寺

足利義政の生涯をハイライト

足利義政が創出した東山文化の象徴 銀閣寺
出典:Wikipedia

足利義政は、永享8年(1436年)室町幕府6代将軍 足利義教の子として生まれました。義政は長男ではなかったため将軍になる立場ではなく、出家して静かな一生を送るはずでした。

しかし、嘉吉元年(1441年)、父の義教が家臣に暗殺されてしまいます(嘉吉の変)。義教急死により、義政の兄 義勝が10歳で7代将軍に就任しますが、わずか8ヶ月で急逝。当時8歳の義政が、繰り上げで次期将軍候補となりました。そして、文安6年(1449年)14歳の義政は元服し、室町幕府第8代将軍に就任。康正元年(1455年)には日野富子を正室に迎えました。

嘉吉の変で暗殺された6代将軍 足利義教
出典:Wikipedia

義政が30代の頃には、彼自身の後継者を誰にするのかが問題となり、応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発。しかし、義政は乱を治められなかっただけでなく我関せずの態度を示し続け、将軍としての職務を放棄してしまいました。

銀閣寺の境内図
出典:Wikipedia

文明5年(1473年)には将軍職を息子に譲り、40代になった義政は文明14年(1482年)に自身の隠居所として東山山荘の造営に着手。義政はこの山荘で趣味嗜好に傾倒しながら晩年を過ごし、延徳2年(1490年)55歳で亡くなりました。晩年の義政が過ごした東山山荘の一部は「銀閣寺」として知られ、この山荘から「わび・さび」の文化である「東山文化」が生まれ、現代の茶道や華道など原点になっているのです。

応仁の乱の原因をつくった

応仁の乱を描いたもの
出典:Wikipedia

足利義政の次の将軍を誰にするのか?それが応仁の乱が起こった原因のひとつです。応仁の乱は約11年も続いた、日本の歴史の中でも特に不毛な合戦。その発端が義政や有力守護大名の後継者争いなのです。

男の子に恵まれなかった義政は、弟の義視(よしみ)を後継者に指名していました。しかし、後に正室の富子が男の子(義尚)を出産。義政は義視を推し、富子は義尚を推したため、後継者をどちらにするか意見が対立してしまったのです。

この将軍の後継者問題に、有力大名の後継者争いも絡み合い、約11年にも及ぶ大乱へと発展してしまいました。

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将軍としての能力に欠けていた

北東方向から見た銀閣寺
出典:Wikipedia

足利義政は、応仁の乱を解決しようとせず、宴や趣味に興じていた為、日本の歴史の中でも特に無能な将軍と言われます。

応仁の乱の原因のひとつになった将軍の後継者問題。この問題は「義政の次に誰を将軍にするか?」という、義政にとっても重大な問題です。義政は進んで解決に乗り出さなければ行けない立場でした。しかし義政は趣味嗜好に没頭し、乱には関わらない姿勢をとっていたのです。

応仁の乱が始まったばかりの頃は、義政も鎮圧しようとしていました。しかし、大名たちは己の私利私欲のために戦っており、義政の命令を無視する者も多かったと言われています。やがて乱はどんどん拡大し、制御できなくなってしまった義政は、将軍の務めを放棄してしまったのです。この無責任さにより、義政は日本の歴史でも特に無能な将軍とも評されているのです。

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文化人としては傑出した人物だった

東山文化を代表する茶道の様子
出典:Wikipedia

足利義政は、東山山荘で文化を発展させた将軍でもありました。応仁の乱への対応では、将軍らしからぬ行動で無能のレッテルを貼られてしまったのですが、文化人としては非常に高く評価されているのです。

晩年の義政は自分の隠居所(東山山荘)を造営。山荘の庭園や建築様式にも徹底してこだわり抜きました。この山荘で義政は、茶道や華道、和歌や能などに熱中。義政の隠居所はいつしか文化の発信地となり、上記の芸術文化が一般庶民にまで広まっていったのです。

以上の芸術文化の発信地が義政の東山山荘だったため、この文化を「東山文化」と言います。将軍としては悪評の多い義政でしたが、文化人としては日本の歴史に偉大な足跡を残しました。

足利義政の功績

功績1「銀閣寺を建立した」

雪景色の銀閣寺
出典:Wikipedia

足利義政は銀閣寺を創建した人物として有名です。

銀閣寺はユネスコの世界文化遺産に登録されており、今も国内外問わず多くの観光客に愛されています。また修学旅行の定番スポットでもあり、その名を知らない日本人はほとんどいません。

東山山荘内の建造物 東求堂(とうぐどう
出典:Wikipedia

銀閣寺は「東山山荘」の一部で、正式名称を「慈照寺(じしょうじ)」と言い、義政が将軍を辞めた後の隠居所として築造されました。創建当時はたくさんの建物があったのですが、現在は銀閣寺と東求堂(とうぐどう)の2つの建造物だけが残っています。

創建から500年以上経った今でも、多くの人々に親しまれている銀閣寺を建てたのは、義政の大きな功績のひとつです。

功績2「わび・さびの文化”東山文化”を創出」

東山文化が生み出した和室
出典:Wikipedia

義政は、茶道や和室などの「和」の文化を確立した人物です。

隠居した義政が東山山荘(銀閣寺)で茶道や華道にのめり込み、茶道、華道、能、連歌、庭園、建築に至るまで、東山山荘が発信地となって一般庶民にまで浸透していったのは、すでに述べた通りです。

上記を「東山文化」と呼び、現在では「わび・さびの文化」と評価されています。現代人がイメージする「日本らしいもの」は、東山文化が原点になっているものが多く、特に畳、障子、襖、床の間から構成される「和室」は東山文化から生まれたものです。他にも、「日本庭園」や「茶道」といったものも東山文化によって原点が確立されました。

東山文化を代表する竜安寺方丈庭園
出典:Wikipedia

決して派手ではありませんが、質素ながらも美しい日本らしさを醸し出す「わび・さび」の東山文化。その出発点や象徴が東山山荘(銀閣寺)であり、その担い手が足利義政だったのです。

足利義政の辞世の句

何事も 夢まぼろしと 思い知る 身には憂いも 喜びもなし

これは足利義政が死の間際に詠んだ和歌です。現代の言葉にすると「死にゆく自分には全てが夢か幻のように思える。今は悲しみも喜びもない」といったような意味になります。本来は将軍になる立場ではなかったにも関わらず繰り上げで将軍になってしまい、応仁の乱で翻弄された人生を振り返り、一種の無常観を感じているかのような印象ですね。

足利義政の人物相関図

応仁の乱発生頃の足利義政人物相関図
出典:マスメディア報道のメソドロジー

足利義政の後継者候補を争った義視と義尚。義視には細川勝元、義尚には山名宗全といった有力な守護大名が味方しました。応仁の乱は将軍候補を誰にするかだけに留まらず、全国の有力守護大名を巻き込んでの大乱へと発展していったのです。

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