「足利義政はどんな人?」
「足利義政は何をした人なの?」
「足利義政が残した文化や銀閣寺について知りたい」
この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?足利義政は室町幕府の8代将軍で、応仁の乱の原因を作ったにも関わらず何一つ有効な手だてを講じられないまま、まるで他人事のように振る舞っていた人物です。彼は日本の歴史上でも特に無能な将軍といった、不名誉なレッテルが貼られています。
その一方で、晩年には東山山荘を築き東山文化を創出、「わび・さび」の価値観を確立しました。この東山山荘の一部が、現在も多くの人に愛される京都の観光地「銀閣寺」なのです。
この記事では、そんな足利義政の功績、応仁の乱の原因になった後継者問題、彼が残した文化や銀閣寺などをご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
足利義政とはどんな人物か
名前 | 足利義政 |
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役職 | 室町幕府8代将軍 |
誕生日 | 永享8年(1436年)1月2日 |
没日 | 延徳2年(1490年)1月7日 |
生地 | 京都某所 |
没地 | 京都某所 |
配偶者 | 日野富子 |
埋葬場所 | 京都市上京区相国寺 |
足利義政の生涯をハイライト
足利義政は、永享8年(1436年)室町幕府6代将軍 足利義教の子として生まれました。義政は長男ではなかったため将軍になる立場ではなく、出家して静かな一生を送るはずでした。
しかし、嘉吉元年(1441年)、父の義教が家臣に暗殺されてしまいます(嘉吉の変)。義教急死により、義政の兄 義勝が10歳で7代将軍に就任しますが、わずか8ヶ月で急逝。当時8歳の義政が、繰り上げで次期将軍候補となりました。そして、文安6年(1449年)14歳の義政は元服し、室町幕府第8代将軍に就任。康正元年(1455年)には日野富子を正室に迎えました。
義政が30代の頃には、彼自身の後継者を誰にするのかが問題となり、応仁元年(1467年)に応仁の乱が勃発。しかし、義政は乱を治められなかっただけでなく我関せずの態度を示し続け、将軍としての職務を放棄してしまいました。
文明5年(1473年)には将軍職を息子に譲り、40代になった義政は文明14年(1482年)に自身の隠居所として東山山荘の造営に着手。義政はこの山荘で趣味嗜好に傾倒しながら晩年を過ごし、延徳2年(1490年)55歳で亡くなりました。晩年の義政が過ごした東山山荘の一部は「銀閣寺」として知られ、この山荘から「わび・さび」の文化である「東山文化」が生まれ、現代の茶道や華道など原点になっているのです。
応仁の乱の原因をつくった
足利義政の次の将軍を誰にするのか?それが応仁の乱が起こった原因のひとつです。応仁の乱は約11年も続いた、日本の歴史の中でも特に不毛な合戦。その発端が義政や有力守護大名の後継者争いなのです。
男の子に恵まれなかった義政は、弟の義視(よしみ)を後継者に指名していました。しかし、後に正室の富子が男の子(義尚)を出産。義政は義視を推し、富子は義尚を推したため、後継者をどちらにするか意見が対立してしまったのです。
この将軍の後継者問題に、有力大名の後継者争いも絡み合い、約11年にも及ぶ大乱へと発展してしまいました。
応仁の乱をわかりやすく簡単に解説!起こった原因や結果、覚え方も紹介
将軍としての能力に欠けていた
足利義政は、応仁の乱を解決しようとせず、宴や趣味に興じていた為、日本の歴史の中でも特に無能な将軍と言われます。
応仁の乱の原因のひとつになった将軍の後継者問題。この問題は「義政の次に誰を将軍にするか?」という、義政にとっても重大な問題です。義政は進んで解決に乗り出さなければ行けない立場でした。しかし義政は趣味嗜好に没頭し、乱には関わらない姿勢をとっていたのです。
応仁の乱が始まったばかりの頃は、義政も鎮圧しようとしていました。しかし、大名たちは己の私利私欲のために戦っており、義政の命令を無視する者も多かったと言われています。やがて乱はどんどん拡大し、制御できなくなってしまった義政は、将軍の務めを放棄してしまったのです。この無責任さにより、義政は日本の歴史でも特に無能な将軍とも評されているのです。