壇ノ浦の戦いの経過・詳細
戦いに至るまで
都落ち
治承・寿永の乱の始まりは、1180年に起こった以仁王の反乱と言われています。これが当時の平氏政権に対する初めての反乱でした。この後、東国で相次いで反乱が発生し、徐々にその勢力は京都へと迫ってきます。
そしてとうとう1183年7月、源義仲(みなもとのよしなか、木曽義仲ともよばれる)が京都へ攻め入ります。平家一門は安徳天皇と三種の神器とともに西へ落ち延びます。
一ノ谷の戦い
都から平氏を追い出した源義仲はその後都での政治に失敗、最終的に源頼朝により滅ぼされます。その間に平氏は福原(現在の兵庫県神戸市)まで勢力を盛り返していました。福原は平清盛が一時都を置いた都市として知られています。
そこに駐留する平氏軍を源義経・範頼兄弟が急襲、平氏を敗走させます。これが「鵯越の逆落とし(ひよどりごえのさかおとし)」などのエピソードで知られる一の谷の戦いです。この戦いで平氏の多くの武将が戦死し、その後の戦いへも影響を及ぼしました。
屋島の戦い
一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、彦島と並ぶ瀬戸内海の拠点、屋島(現在の香川県高松市)に陣を置きます。陸ではなく海を抑える作戦です。
対する源氏は源範頼が平氏の退路を遮断すべく、陸から九州の制圧を試みますが、平氏の水軍により補給路を寸断されるなどして苦しみ進軍は停滞します。
この状況を見た源義経は後白河法皇へ出陣の許可を願い出て、屋島を背後から奇襲します。屋島は海からの攻撃には鉄壁の守りでしたが陸からの攻撃にはもろく、慌てふためいた平氏は海へと敗走しました。これが屋島の戦いです。
壇ノ浦の戦いへ
瀬戸内海を抑える上で重要な拠点であった屋島を失った平氏は、それまで誇っていた水軍の優位性をも失っていきます。最後の拠点である彦島をなんとかして死守するしかなくなりました。
しかも背後の九州はすでに源範頼によって抑えられており、平氏はもうこれ以上どこへも逃げられません。まさに背水の陣で源氏を迎え討つことになりました。
戦いの流れ
前半
彦島へ攻めてくる源氏を迎え討つべく平氏も出陣します。源氏の船は約840艘(3000艘説もあり)、平氏の船は約500艘(1000艘説もあり)だったと言われています。
平氏の船には安徳天皇や女官たちが乗った船(大型の唐船)も含まれています。これはもうどこにも安全な場所がなかったということもありますし、唐船をおとりにして集まってきた源氏方の船を包囲する作戦だったともいわれています。
源氏は船に加えて陸地から範頼が遠矢を射掛けてきます。壇ノ浦はもっとも狭い場所で約700メートルしかなく、陸から射掛けられないように距離を起きつつ、速い潮の流れにも対処して・・・となるとそれだけでかなり大変そうです。数的にも劣勢なので最初からかなり源氏が優位なのではないかと思えますが、前半は平氏が優位でした。
後半
しかし徐々に源氏が押しはじめてきました。義経が平氏の漕ぎ手を狙い撃ちにしたからという話もありますが、これは創作である平家物語ですら書かれていない話ですから真偽は怪しいです。潮の流れが変わって源氏が有利になったとする潮流説が現在のところ通説になっています。
しかし潮流説も実際に戦った海域ではそれほど速い潮流がないのでは?などといった反論も出ている状況なので、まだまだ真実が判明するまでには検討の余地がありそうです。
しかしいずれにしても平氏が敗れたのは事実。もはやこれまでと悟った平氏は次々と入水して自決しました。当時まだ6歳だった安徳天皇も例外ではありません。天皇の祖母にあたる二位尼(平清盛の正室)はまだ幼い天皇と三種の神器とともに船から身を投げるのでした。この戦いのハイライトともいえるでしょう。
天皇の母である建礼門院(けんれいもんいん)も入水しますが源氏により助けられています。また三種の神器も八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)はなんとか回収されましたが、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ、草薙剣(くさなぎのつるぎ)とも言われる)はとうとう回収できませんでした。
このように一部救助された人もいますが、ほとんどの一門がこの壇ノ浦で自決し平氏はここに滅亡したのです。また安徳天皇や天叢雲剣を失ったことは、頼朝と義経の間に新たな禍根を生むことになるのでした。
確かな記録はない?
実は今お話しした内容は、あまり確かなものではありません。もっとも信頼度が高い当時の歴史書『吾妻鏡』では「壇ノ浦の海上で源平が戦った。平氏が負けて終わった。」くらいのこととしか書かれていません。「平家物語」などは創作なので誇張が多分に含まれていますから、どこまで信じていいのかわからない部分があります。
そもそも戦いがあった時間すら確かではなく午前説(吾妻鏡)と午後説(玉葉)などがあります。先ほどもお話した潮流説は午後説に基づいており、午前説が正しい場合潮流説も怪しくなってきます。つまり具体的な戦況については、未だにほとんどわからないというのが真実なのです。