芥川龍之介とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品の特徴や名言、生い立ちも紹介】

芥川龍之介の生涯年表

1892年 – 0歳「芥川龍之介、誕生」

芥川の生誕地に立つ看板

東京の牛乳店に生まれる

芥川龍之介は、現在の東京都中央区明石町である、東京市京橋区入船町8丁目に生まれました。父は牛乳の製造販売業を営む新原敏三(にいはらとしぞう)、母は芥川家から嫁いだ、新原フクです。龍之介を生んだ時点で、敏三は42歳、フクは33歳と、当時からすると高齢での出産だったと言われています。

姉が二人いたとの記録が残っていますが、一番上の姉は、龍之介が生まれる1年前に病によって他界していたため、生後間もない芥川は、家族4人で暮らしていたようです。

「龍之介」と言う名は、彼が辰年、辰月、辰日、辰の刻に生まれたことに由来すると言われていますが、出生時刻については記録が残っていないため、龍之介が本当に辰の刻生まれなのかは分かっていません。

また、度々「芥川龍之“助”」と表記されることがありますが、彼自身はその表記を嫌い、あくまで戸籍上の名義でもある「龍之介」名義を使っていたそう。細かな違いではありますが、芥川龍之介のファンを名乗るのであれば、必ず気を付けておきたいところです。

生後7か月、母の発狂により芥川家へ

龍之介が生まれてから7カ月が経ったころ、突如として母のフクが発狂。発狂の原因としては、龍之介が生まれる1年前の、長姉の死への嘆きが有力であるとされています。

母が発狂したことにより、龍之介は母の実家である芥川家に預けられることに。こうして母の実家に預けられた龍之介は、伯母である芥川フキによって養育されることになります。

芥川は晩年、養母であるフキに対して、深い感謝の念を感じていると共に、監視されているような息苦しさも感じていたことを書き残しています。しかし、感謝の念を抱いていることは本当だったらしく、芥川家への帰省の際には必ず土産を持参するなど、フキに対してよく尽くしていたようです。

1898年 – 6歳「江東尋常小学校に入学」

墨田区立両国小学校

江東尋常小学校に入学

6歳になった龍之介は、現在の墨田区立両国小学校である、江東尋常小学校(こうとうじんじょうしょうがっこう)に入学します。

伯母であり養母でもあるフキが教育熱心な人物であったこともあり、龍之介はとても頭のいい子供であったようです。

また、龍之介が引き取られた芥川家は、江戸時代より続く文人の家系であったこともあり、幼い龍之介も文学や江戸的な文化に親しんでいたそうです。小学校に入学する前から、草双紙を読むことができたと言う話も残っており、幼い龍之介の賢さを物語っています。

1903年 – 11歳「母の死を知る」

実母が死去

母の死

この年、発狂した実母、フクが死去。

フクは発狂して記憶を失ってから死ぬまで、一度も記憶を取り戻したことはなかったようで、「一室にこもり切り、ただぼんやりと座ったまま、時折思い出したように狐の絵を描いていた」と記録されています。

芥川は晩年、実母であるフクに対し「母としての親しみを覚えたことは、一度とてなかった」と記しているほか、自身も精神が不安定になった際には「母から受け継がれた遺伝的な形質なのではないか」と極度に恐れていたようです。

1904年 – 12歳「養子として、正式に“芥川”姓を名乗る」

芥川生育の地を示す看板

親権争いの決着

フクが死去したことで、龍之介の実父である新原敏三は、龍之介を新原家に呼び戻そうとします。しかしこの頃、芥川家と敏三の仲は険悪になっており、龍之介の親権は裁判によって争われることとなりました。

親権を争う裁判の結果、龍之介は新原家から正式に除籍されたうえで、叔父である芥川道章(あくたがわみちあき、“どうしょう”と言う説あり)に養子として引き取られることに。

これによって、実父とも実母とも別れることになった芥川は、「頑張らなければ見捨てられてしまう」という、晩年まで続く強い強迫観念にかられるようになってしまったようです。

1910年 – 18歳「第一高等学校第一部乙類に、無試験入学」

後年長崎を訪れたときの写真
一番左が菊池寛、その隣が芥川

第一高等学校第一部乙類に入学

府立第三中学校を卒業した芥川は、多年成績優秀者として賞状を受け、そのまま第一高等学校第一部乙類に入学。その年、第一高等学校は、中学時代の成績優秀者に対して無試験での合格を許す制度を取っており、芥川はその制度に基づいて無試験入学を許されたようです。

芥川の同期に当たる第一高等学校には、後世に名だたる功績を残すメンバーが揃っていました。

作家の菊池寛、久米正雄、松岡譲。アララギ派の指導者である土屋文明(つちやぶんめい)。法哲学者の井川(恒藤)恭(いがわ(つねとう)きょう)。共産党指導者の佐野文夫(さのふみお)等は特に有名です。

特に菊池や久米は、同人誌の発刊や取材旅行を共にするなど、芥川にとって終生の友となりました。また、井川についても、文学と法学と、専門とする分野こそ違いましたが、終生の親友であったと記録されています。

1914年 – 22歳「同人誌『新思潮』を発刊」

「新思潮」創刊号

『新思潮』を発刊、創作活動を開始

前年に、難関である東京帝国大学英文科に進学した芥川は、高校時代の同期、菊池寛、久米正雄とともに、同人誌『新思潮』を刊行。

芥川は「柳川隆之介」のペンネームを用いて、アナトール・フランスの『バルタザアル』と、ウィリアム・バトラー・イエーツの『春の心臓』の和訳を寄稿。その後は10月の廃刊までの間、『老年』と言う作品を連載し、創作活動を始めます。

芥川の恋

またこの頃、芥川には思いを寄せる女性がいたようです。女性の名前は吉田弥生(よしだやよい)。青山女学院英文科を卒業した、当時としては博学で聡明な女性でした。弥生の父が勤める病院に、芥川の生家である新原家が牛乳を卸していたことから、二人は以前から知り合いであったと言われています。

しかし、芥川が弥生に思いを寄せるのと時を同じくして、弥生に縁談が持ち上がります。その焦りもあってか、芥川は彼女に求婚をしようと思い立ちますが、芥川家から強烈な反対を受け、結局その恋は叶わぬものとなってしまったようです。

芥川家からの反対理由については、弥生が非嫡出子であったことや、弥生の縁談が進行中であったことがあげられます。また、俗説に過ぎない説ではありますが、芥川家と吉田家の仲の悪さが影響したとも言われているようです。

ともかく、この失恋によって「愛とエゴイズム」についてを真剣に考えるようになったとされる芥川。この失恋が芥川の文学に影響を与えたと思うと、本人にとっては苦い思い出だったでしょうが、読者である我々にとってはありがたい経験だったと言えそうです。

1915年 – 23歳「ペンネーム「芥川龍之介」の誕生」

『羅生門』

「芥川龍之介」名義で、『羅生門』を発表

この年の10月、彼は「芥川龍之介」のペンネームで、『帝国文学』に後の代表作、『羅生門』を寄稿しました。

教科書にも載るような、人間のエゴイズムを描いた名作である『羅生門』ですが、一説ではこの作品は、前年の失恋によって得た感情を書き記したものであるとも言われています。

人間の弱さや道徳心の脆さ、醜いエゴイズムを描いた名作であることは疑いようがありませんが、そのようなエピソードを知ってから読み返すと、また違った感想を抱くかもしれません。

級友からの紹介で、夏目漱石の門下へ

松岡譲(一説では鈴木三重吉)の紹介で夏目漱石と出会い、彼の門下として、他の小説家たちと交流を始めます。

芥川は漱石のことをとてもリスペクトしていたようで、ともすれば病的なほどに、漱石から見放されることを恐れていた事が知られています。

特に有名な話としては、漱石が開いていた「木曜会」と言う会合で、万が一にも漱石の機嫌を損ねることが無いように、自身の一挙一動に至るまでに注意を払い、病的に漱石に尽くしていた事が、記録によって明らかにされています。

また、芥川の作品からも漱石へのリスペクトは読み取れ、多くの作品に「先生」として、漱石と見られる人物が登場しているほか、『歯車』『或阿呆の一生』では、漱石への尊敬の念について、名指しで言及がなされています。

1916年 – 24歳「『新思潮』を再び刊行。漱石から作品を絶賛される」

「鼻」が掲載された『新思潮』

『新思潮』を再び刊行し、『鼻』を寄稿

芥川はこの年、菊池寛、久米正雄らと共に、再び同人誌『新思潮』を刊行します。この年の刊行には、高校の同期である松岡譲と、フランス文学者の成瀬正一もかかわっていたようです。

芥川はこの創刊号に、後に代表作の一つとして称されることになる『鼻』を寄稿。コンプレックスに踊らされる人間と、その本質、そして主人公の周囲の人物たちを通して、人間の心根の醜さを、ユーモラスかつ痛烈に描いた作品は、師匠である夏目漱石から絶賛されることになります。

この経験によって、自分の作品に自信を持った芥川は、本格的に創作活動へとのめり込んでいくこととなるのです。

海軍機関学校の嘱託英語教官として就職

帝国大学を卒業した芥川は、多数の英文学者たちから推薦を受けて、海軍機関学校の嘱託英語教官の職に就きます。

忙しい日々の中でも芥川は旺盛に創作活動を続け、翌年の5月には短編集である『羅生門』を。11月には短編集『煙草と悪魔』を刊行し、好評を得ています。

1919年 – 27歳「結婚と、専業作家としての船出」

『地獄変』

専業作家としての船出

この年の3月、海軍機関学校の嘱託英語教官の職を辞した芥川は、大阪毎日新聞社に入社。

芥川の入社は、新聞記者としての入社ではなく、新聞に連載小説を寄稿するための入社でした。そのため、芥川に出社の義務はなく、これにより芥川は専業作家としての第一歩を踏み出すことになります。

余談ですが、芥川が大阪毎日新聞社に入社する12年前には、師匠である夏目漱石も同様に朝日新聞社に入社。かれもまた、新聞への寄稿から専業作家への第一歩を踏み出していました。

奇しくも師である漱石と同じような形で、専業作家への道を歩み出した芥川。この頃の芥川の作品には、芸術至上主義的な側面が多く見られ、中でも1918年に執筆された『地獄変』は、この頃の芥川作品を代表する名作として、現在も読み継がれています。

塚本文との結婚

芥川一家

芥川は、専業作家としての第一歩を踏み出したのと、ほとんど時を同じくして結婚。相手は友人の姉の娘である塚本文でした。

文は聡明かつ、常に夫である芥川を立てる「良妻賢母」であったと伝わっています。また、芥川も彼女に対して「僕が文ちゃんを嫁にもらいたい理由は一つだけです。その理由は、僕が文ちゃんを好きだという事です」と、見ているこっちが恥ずかしくなるようなラブレターを彼女に送っています。

また、結婚後の5月には菊池寛と共に長崎へ取材旅行を敢行。この時の旅行で、劇作家である永見徳太郎(ながみとくたろう)と知り合っています。

1920年 – 28歳「長男が誕生」

芥川比呂志

長男、芥川比呂志が誕生

この年の3月30日に、芥川と文の間には、長男である芥川比呂志が誕生します。比呂志と言う名前の由来は、親友である菊池寛の名前である「寛」の別読みからとられているそうです。

比呂志は後年、俳優や演出家として才能を発揮。劇団文学座の看板俳優として『ハムレット』の主演などを務め、今でも語り継がれる伝説的な絶賛を得た他、『スカパンの悪だくみ』『海神別荘』の演出で賞をとるなど、芸能分野で華々しい活躍を上げました。

1921年 – 29歳「海外視察員として中国を訪問。そして晩年へ……」

『上海遊記 江南遊記』

海外視察員として中国を訪問

海外視察員として中国を訪れた芥川は、北京で学者であり外交官でもある胡適(こてき、中国語読みで“こせき”とも)と会談を行っています。

胡適と検閲の問題について語り合った芥川は、7月に帰国。彼は中国視察の模様について、『上海遊記』という紀行文に記しています。

心身の衰え

帰国した芥川の心身には、徐々に衰えの兆しが見え始め、腸カタルと神経衰弱を患ってしまいます。翌年には次男が生まれ、代表作の一つでもある『藪の中』の刊行も行いますが、次第に作品数は減少していき、作品の主題も、自身の今までの人生などを扱った私小説的な傾向が強くなっていきます。

1922年 – 30歳「次男が誕生」

次男の名前の由来となった小穴隆一(右)

次男、芥川多加志が誕生

この年の11月8日に、次男である芥川多加志が誕生します。多加志と言う名前の由来は、親友である画家、小穴隆一の「隆」の字の別の読み方からとられているそうです。

多加志は、兄弟の中では最も芥川に似て、文学志向が強い子供であったようですが、残念ながら第2次世界大戦中、1945年にビルマにて戦死。芥川の志向と才能を受け継いだ子供が文壇に上がることは、残念なことにありませんでした。

1923年 – 31歳「関東大震災と、病状の悪化」

関東大震災当時の東京・日本橋

関東大震災

9月1日に発生した関東大震災の影響で、各地に自警団が勃興。芥川も世間体を気にして、病身をおして自警団に参加しました。

彼はこの時の様子について、随筆である『大震雑記』や、アフォリズム『或自警団員の言葉』に詳しく残しています。

また、その頃の芥川の様子について、一緒に吉原付近の見物に出かけた川端康成は「芥川は死体と瓦礫が転がる惨状の中を、軽やかに飛ぶように歩いていた」と書き記しています。

病状の悪化。湯河原町に湯治へ赴く

この頃になると、患っていた病気の症状が悪化。芥川は湯河原町へ、湯治に赴きます。

この頃になると、作品数は全盛期と比べると明らかに減少。内容も私小説的な色が濃くなるなど、作風が晩年的に変化していきます。

1925年 – 33歳「病状のさらなる悪化と、三男の誕生」

芥川也寸志

文化学院の講師に就任

この年、文化学院文学部の講師に就任した芥川でしたが、翌年には再び病状が悪化。更に悪いことに胃潰瘍や不眠症を患ってしまい、再び湯河原で療養を行うことになってしまいます。

また、芥川の療養と時を同じくして、妻である文の弟も病気をし、文は弟の看病のために鵠沼(くげぬま)の実家別荘へ移住。芥川も鵠沼の旅館へ移り住み、そこで部屋を借りてしばらくの間滞在しました。

鵠沼での生活の最中、芥川は『鵠沼雑記』『悠々荘』など、鵠沼を舞台とした私小説的な作品を脱稿。また、この頃の芥川のもとへは、多くの友人が訪れていたようで、芥川の晩年の中で最も充実した期間であったともされています。

三男の誕生

この年の7月11日には、三男である芥川也寸志が誕生。也寸志の名前の由来も、上の兄二人と同様、芥川の親友である法学者、恒藤恭の「恭」の字の別読みからとられています。

也寸志は、父である芥川の遺品だったストラヴィンスキーのレコードを好んでいたらしく、後に音楽方面にその才能を発揮。成長して作曲家となった彼は、『八甲田山』『八つ墓村』の映画音楽を担当し、第1回日本アカデミー賞の最優秀音楽賞と優秀音楽賞の二冠を達成するという快挙を成し遂げることになります。

1927年 – 35歳「死に至るまでの半年間」

1月、義兄の自殺

この年の1月、芥川の義兄である西川豊が突如として線路に飛び込んで自殺。「保険金目当てに家に火を放ったのではないか」という、警察からの疑いを苦にして、自身の無罪を証明するための自殺であったとされています。

自殺した西川には多額の借金があったらしく、その借金の責任は芥川に。更に、西川が残した家族の面倒も見なくてはならなくなるなど、病身の芥川には、ここにきて重いプレッシャーがのしかかることになってしまいます。

4月、谷崎潤一郎との文芸論争

4月には、谷崎潤一郎を相手取って「文学における芸術性や美しさ」の観点で論戦を展開。

「物語を折り重ねた、ストーリーとしての芸術こそが文学の美しさである」と主張する谷崎に対して、芥川は「物語そのものは文学にとってさほど重要ではなく、表現技術や言葉の選び方など、一文の表現の妙こそが文学を芸術とする」と持論を展開して議論を戦わせました。

論争した谷崎潤一郎

「ストーリー重視」と「表現重視」。どちらが文学としての芸術かという問題については、現在でも決着がつかず、また、未来永劫決着がつかないであろう問題でもあります。

この議論については、谷崎側の主張は『饒舌録』に、芥川側の主張は『文芸的な、余りに文芸的な』に記されていますので、両名の文学に関する信念を知りたい方は、ぜひともご一読することをお勧めします。

また、この論争と時を同じくして、芥川は心中未遂事件を起こしています。心中相手は、妻である文の幼馴染であり、芥川の秘書を務めていた平松素麻子。素麻子が心中直前にその企てを他言したため、自殺は未遂に終わったようですが、一説では素麻子が芥川の自殺を阻止するために動いていたとも考えられています。

突如としてこの世を去る

芥川龍之介の墓

7月24日、『続西方の人』を書き上げた芥川は、そのまま致死量の睡眠薬を服薬し、突如として帰らぬ人となりました。享年は35歳。雨が降りしきる中、文豪は自室でひっそりと、その短い生涯を追えたのです。

芥川の自殺の原因は、遺書にある「ただ漠然とした将来への不安」という言葉が有名ですが、それ以上の直接的な理由については、何もわかっていないようです。

しかし晩年の芥川は、肉体の不調だけでなく、神経衰弱に伴ううつ症状や倦怠感と言った精神的な不調を患っており、それについて「母からの遺伝ではないのか」と極度に恐れていたことが伝わっています。さらに生活面においても、前述の義兄の自殺に伴う責任の増大や、患っていた病状の悪化等が重なっており、それらが複合的な要因となって自殺に踏み切ったという説が、現在では通説となっています。

また、同じ漱石門下の内田百閒(うちだひゃっけん)は、自殺直前の芥川について、「大量の睡眠薬でべろべろになっており、起きたと思ったらまた眠っている状態だった」と証言しているほか、死後に発見された遺書に「2年ほどの間、死ぬことばかり考えていた」と記されていることから、自殺がかなり以前より計画されていたものだったと見ることもできます。

ともかく、こうして短い生涯を自殺によって終えた芥川。そんな彼の自殺は社会にも大きな影響を与え、「芥川宗」と呼ばれる、芥川の後追い自殺をする若者が社会問題になった他、後の文豪である太宰治にも、良くも悪くも多大な影響を与えました。

芥川龍之介の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

文芸的な、余りに文芸的な/饒舌録 ほか 芥川vs.谷崎論争 (講談社文芸文庫)

先述させていただいた、芥川と谷崎の文学論争をまとめた一冊です。

その時代の一般的な文学の価値観や、その時代の大まかな文学史は知っていることが前提となっているので、かなり難易度の高い本ですが、その分読みごたえは抜群。

芥川龍之介、谷崎潤一郎の文学に関する信念を知ることができる、骨太の一冊となっています。

河童・或阿呆の一生(新潮文庫)

『羅生門』や『鼻』、『地獄変』など、芥川の前期から中期にかけての作品は、教科書などにも良く取り上げられ、知っている方々も多いと思います。

こちらは教科書には取り上げられることが少ない、芥川晩年の名作がまとめられた一冊です。

遺書に残された「2年ほど死について考え続けた」と言う言葉の、その2年ほどの間に書かれた作品集なだけに、死についての芥川なりの考えが見える、暗く陰鬱で、けれどそこはかとないユーモアや知見が見える、怪作揃いの短編集となっています。

芥川龍之介のおすすめ作品・本13選【短編集や関連書籍まで】

芥川龍之介に関するおすすめ映画

羅生門 デジタル完全版

言わずと知れた日本映画の名作です。主演は往年の名優、三船敏郎。監督はこれも説明不要の名監督、黒澤明という豪華な布陣の作品です。

作品としてはとんでもなく古い作品のため、映像もモノクロで、編集なども、今見ると粗さが目立ちますが、俳優陣の演技や脚本の冴えはやはり必見。芥川が作品に込めた「人間のエゴイズムと、生きることへの問い」を、映像として見事に表現しています。

完全に『羅生門』同様のストーリー展開ではなく、『藪の中』の要素も多分に混ぜた作品ですので、『藪の中』のファンにもお勧めしたい作品です。

関連外部リンク

芥川龍之介についてのまとめ

現代に至るまで詠み継がれる多くの短編小説の名作を遺しながら、35年と言う短い生涯を自らの手で絶って旅立った文豪、芥川龍之介。

彼の作品には、自分自身を見つめ直したくなる、そんな魔力のような何かが込められているように感じます。

この記事で芥川に興味を持った方には、まずは『羅生門』、次に『鼻』と『杜子春』、最後に『河童』と読み進めていってほしいと思います。どれも主題が「人間」であると同時に、執筆当時の芥川の心境がよくわかる作品です。ぜひともこの記事と突き合わせつつ読んでいただけると幸いに思います。

芥川龍之介に興味がある人は、芥川をどれだけ知っているかクイズで挑戦してみてください!

【芥川龍之介クイズ#1】鋭敏な感性と教養をもった日本の文豪。

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