北条時宗の功績
功績1「元寇を撃破し日本の国難を救った」
北条時宗は「文永の役(ぶんえいのえき)」と「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ばれる2度のモンゴル軍襲来を退け、日本史上でも最大級の国難を救いました。
元寇が起こった時のモンゴル帝国の皇帝は「フビライ・ハーン」。初代皇帝チンギス・ハーンによって樹立されたモンゴル帝国は、フビライの時代に最大の領土を築きました。その広大さはユーラシア大陸の大部分、地球全体で見ると世界の大陸の4分の1を支配する大帝国になっていたのです。
上記の広大な領土の一部(現在の中国や朝鮮半島、モンゴルのあたり)が「元(げん)」と呼ばれる王朝でした。つまり世界の多くを支配する強大な国家が、アジアの東端のある島国 日本に攻め込んできたのです。
以上のような国難の時に、日本の政治のトップにいたのが北条時宗でした。時宗は日本の独立を守るべく徹底抗戦の構えを見せ、日本が一丸となって戦うための政策を行っていきます。結果、日本は2度の元寇を見事に退けたのです。
功績2「日本を守るため国内の裏切り者も許さなかった」
北条時宗は、「モンゴル軍に勝つには日本が一枚岩になる必要がある」と考え、国内の反乱分子には極めて厳しい処罰を下しました。
時宗が執権になった事実に不満を持っていた兄の北条時輔(ときすけ)を始め、時宗の政治に反発する北条一族を処刑。外敵と戦う前に、内部の敵を滅ぼし元寇へ備えたのです。以上の粛清事件を「二月騒動(にがつそうどう)」と呼びます。二月騒動の結果、裏切り者はいなくなり、日本は時宗を中心として元寇に対する準備を整えられる環境になったのです。
功績3「元寇に対して徹底した防御態勢を整えた 」
時宗はモンゴル軍が日本に上陸しないよう防塁(敵の侵入を防ぐ石垣のようなもの)を築いたり、元からの使者を厳しく処断したりと、徹底した防御体制を敷いていました。
1度目の文永の役ではなんとか勝利したものの、モンゴル軍の九州上陸を許しています。その反省から、博多湾沿岸に石を積み上げ、約20kmにも及ぶ防塁を築き次の襲来に備えました。結果、2度目の弘安の役では防塁に阻まれ上陸できないモンゴル軍に、日本軍が艦隊決戦を挑み見事に勝利をおさめました。上記の防塁は「元寇防塁」と呼ばれ、国の史跡に指定されています。
また、1度目の文永の役の後も、フビライ・ハーンは日本に降伏を促す使者を絶えず送ってきました。しかし時宗は屈せず、やってきた使者を全員処刑し、徹底抗戦の意思を示します。使者の処断には敵へ情報が盛れるのを防ぐ意味があるため、モンゴル軍の諜報活動も防げたのです。
北条時宗と関わりの深い人物
北条政村
鎌倉幕府の7代執権。時宗の父 時頼の大叔父にあたり、まだ13歳だった時宗の代理で執権になった人物です。代理とは言え名君として知られ、18歳の時宗に執権職を譲った後も行動をともにして、二月騒動や元寇への備えなどでも活躍しています。
フビライ・ハーン
5代目のモンゴル帝国皇帝で、元王朝を樹立した元の初代皇帝。モンゴル帝国の勢力が最も広かった時期の皇帝です。日本を支配下に組み込むため2度に渡り軍隊を差し向けましたが、北条時宗や九州の武士団の活躍により敗北しました。
亀山上皇
日本の第90代天皇(元寇の時は上皇)。元寇への対応にあたり、時宗は朝廷から外交権を預かり、亀山上皇からも絶大な信頼を得ていたと言われています。そして元寇が起こった際の亀山上皇は、「自分はどうなってもいいから、どうか日本の国と民を守ってほしい」と伊勢神宮で懸命に祈りを捧げていたのです。