北条時宗はどんな人?生涯・年表まとめ【元寇での活躍や死因も紹介】

北条時宗にまつわる逸話

逸話1「日本の勝因は神風ではなかった」

暴風雨で壊滅するモンゴル軍
出典:Wikipedia

元寇と言えば「神風(暴風雨)が吹いて日本が偶然勝った」といった説が一般的でしたが、昨今では疑問視されています。現在は「日本の勝因は、時宗の政治手腕や九州の武士団の活躍によるところが大きい」といった説が当時の状況などから判明してきています。

1度目の文永の役で日本が苦戦したことや、海上のモンゴル軍が台風で壊滅したのは事実です。しかし、重要なのは暴風雨が発生したタイミング。「暴風雨が発生したからモンゴル軍が退却した」のではなく、「日本軍が手強いので船に引き上げたら暴風雨が直撃した」のです。つまり「台風がきたから体退却」したのではなく「退却しようとしたら台風がきた」のです。

「蒙古襲来絵詞」に描かれた建設当時の元寇防塁
出典:Wikipedia

また、2度目に弘安の役に至っては、防塁に阻まれ上陸できない元軍は2ヶ月間も海上に留まりつづけ、そうこうしている間に再び台風が直撃。日本軍の追い打ちもありモンゴル軍は壊滅しました。時宗が築造した防塁が大いに役立ったのです。

以上のように、最近は「暴風雨(神風)自体が日本の勝因ではない」とされています。

逸話2「凄まじい被害を受けた元の軍」

モンゴル軍の兵士の首を持ち帰る日本軍を描いたもの
出典:Wikipedia

2度に渡り敗北したモンゴル軍でしたが、特に2回目の弘安の役では凄まじい被害を被っています。被害総数には諸説あるものの、一説には「14万人いたモンゴル軍の内、10万人が戻ってこなかった」とされ、他の史料では「10万人のモンゴル軍の内、帰ってきたのはたったの3人だった」とも言われています。

数字には差があるものの、どちらも甚大な被害であることには変わりないので、モンゴル軍が壊滅状態だったのは事実と考えら、その証拠に海底からはモンゴル軍の船がいくつも発見されています。

逸話3「元寇で亡くなった人々を供養する寺を建てた」

時宗が建立した円覚寺
出典:Wikipedia

弘安5年(1282年)時宗は元寇で亡くなった人全てを追悼するために寺を建てました。その寺は円覚寺(えんがくじ)といい、今も神奈川県の鎌倉に現存しています。また、同県の藤沢市には常立寺(じょうりゅうじ)があり、時宗が処刑した元の使者が手厚く葬られているのです。

敵味方問わず供養されている事実から、時宗は亡くなった者たちに対しても畏敬の念を持っていたと察せられます。元寇時に見せた厳しい姿勢はあくまで日本を守る為、執権としての立場を貫いていたからなのではないでしょうか。

北条時宗の年表

1251年 – 1歳「北条時宗誕生」

時宗の父 北条時頼の墓所
出典:Wikipedia

北条時宗は、鎌倉幕府5代執権 北条時頼の次男として建長3年(1251年)に生まれました。時宗には異母兄の北条時輔がいたのですが側室の子だったため、正室の子である時宗が後継者として育てられます。そして、正嘉元年(1257年)にわずか7歳で元服しました。

1268年 – 18歳「8代執権に就任」

東方見聞録に描かれたフビライ・ハーン
出典:Wikipedia

時宗は18歳で執権に就任するやいなや、元寇への対応を迫られます。

時宗が執権になったのは、モンゴル帝国の脅威が迫りつつあった時期。7代執権の政村は、モンゴル帝国皇帝フビライ・ハーンから届いた手紙を目にし、時宗に執権職を譲りました。もともと時宗の代理で執権職に就いていた政村は、時宗の才能を見抜き「元寇に対抗するには自分では役不足」と感じ、潔く執権の座を譲り渡したと伝わっています。そして、政村は時宗を支えながら共に元寇と戦っていくのです。

モンゴル帝国からの度重なる脅迫

元の使者が届けた国書
出典:Wikipedia

日本を支配下に治めんとするモンゴル帝国皇帝のフビライ・ハーンは、計6通もの手紙を日本に送ってきたと言われています。手紙の内容は表面的には「同盟関係を結びたい」と書かれていましたが、文末には「言うことを聞かなければ攻め込むぞ!」といった意味の言葉が書かれており、実質的には「支配下に入れ!」といった脅迫状でした。

フビライの手紙は1266年~1274年まで届き続け、その最中の文永5年(1268年)に時宗は8代執権となったのです。時宗は手紙を無視し、モンゴル帝国の支配には屈しない姿勢を貫きました。

1272年 – 22歳「二月騒動で内部の敵を粛清」

元の船の碇
出典:Wikipedia

元寇の脅威が間近に迫る中で、時宗は国内の反時宗勢力を処刑しました。外敵と戦う前に内部の敵を一掃したのです。前述の通り「二月騒動」と言われる出来事です。

どんな時でもそうですが、大きな物事に当たる時は一致団結が必要で、和を乱す者がいると足並みが揃いません。ゆえに、まずは内部の反乱分子を一掃する必要がありました。また、敵に内通者を作るのは戦の常套手段であり、反乱分子は最も寝返らせやすい人物です。事実、モンゴル帝国は敵の内部に裏切り者を作る術に長けており、多くの地域が上記の戦法で侵略されています。

二月騒動の結果、時宗を中心として日本は一丸となりました。二月騒動が文永の役の勝因だとする意見もあります。

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