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北条時宗はどんな人?生涯・年表まとめ【元寇での活躍や死因も紹介】

「北条時宗は何をした人なの?」
「元寇にはどうやって勝ったの?」
「死因はなんだったの?」

この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?北条時宗は鎌倉幕府の8代執権で、2度の元寇(げんこう)を退けた人物です。元寇とはモンゴル帝国が日本を征服するために攻め込んできた大事件。強大なモンゴル帝国に対抗するため、時宗は徹底した政治や国防を行い、日本を勝利に導きました。

鎌倉幕府8代執権 北条時宗
出典:Wikipedia

この記事では、そんな北条時宗の活躍、元寇への対策や勝因、若くして亡くなってしまった時宗の死因などをわかりやすくご紹介します。

北条時宗とはどんな人物か

名前北条時宗
役職鎌倉幕府8代執権
誕生日建長3年(1251年)5月15日
没日弘安7年(1284年)4月4日
生地相模国鎌倉の安達氏邸宅(甘縄邸)
没地鎌倉某所
配偶者堀内殿(覚山尼)
埋葬場所神奈川県鎌倉市円覚寺

北条時宗の生涯をハイライト

時宗の父 7代執権 北条時頼
出典:Wikipedia

北条時宗は鎌倉時代の人物で、日本の政治を行う執権(しっけん)の家に生まれました。18歳の時には8代目の執権となり、日本の政治を任されます。そして時宗が執権だった時期に、日本はモンゴル帝国に2度攻め込まれました。しかし、時宗は徹底した政策でモンゴル帝国への備えを実施。時宗を中心とした日本は一丸となってモンゴル帝国と戦い、見事に勝利をおさめたのです。

モンゴル帝国の襲来を2度に渡り退けた時宗でしたが、約3年後に34歳の若さでこの世を去りました。病に侵されていたとも、過労が原因とも言われています。まさに、モンゴル帝国から日本を守るために生まれて来たかのような英雄でした。

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若くして元服、結婚、そして8代執権となる

時宗の義理の父 安達泰盛
出典:Wikipedia

北条時宗は、元服、結婚、執権になった年齢が、当時としても異様に早い人物でした。

鎌倉幕府5代執権 北条時頼の次男として建長3年(1251年)に生まれ、正嘉元年(1257年)に7歳で元服します。元服とは現代風に捉えると「7歳で成人式を迎えた」ような感覚です。当時の元服は10代の前半~半ばくらいに行うのが普通なので、時宗の元服がいかに早かったかがわかります。そして弘長3年(1263年)に鎌倉幕府の有力家臣 安達泰盛の妹と11歳で結婚しました。

文永5年(1268年)には18歳で8代執権に就任します。「執権」を現代の感覚で例えるなら、総理大臣のようなもの。つまり「18歳の総理大臣の誕生」です。そして、執権に就任するやいなや、時宗は元寇への対応を強いられていきます。

2度の元寇を撃破

1294年頃の元の支配領域
出典:Wikipedia

北条時宗は「文永の役(ぶんえいのえき)」と「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ばれる2度の元寇から日本を守るための政治を行い、見事に元を退けました。

「元寇(げんこう)」とは、世界の陸地25%を支配したモンゴル帝国の一部である「元(げん)王朝」が日本に攻め込んできた事件です。モンゴル軍は手始めに日本の対馬や壱岐を遅い、島民は皆殺しにされました。壱岐・対馬は凄まじい惨状だったと伝わっています。この時のモンゴル軍には、モンゴル帝国の兵だけでなく支配下にあった高麗(こうらい/現在の韓国・朝鮮)の兵もたくさん含まれていました。

博多の浜辺に陣を敷いた日本軍
出典:Wikipedia

しかし、時宗の政策で一丸となった日本軍の抵抗は凄まじく、1度目の文永の役では九州本土に上陸を許したものの見事に追い返して勝利、2度目の弘安の役では満足に上陸すら許さずモンゴル軍を撃破したのでした。

若くして亡くなった時宗の死因

時宗の墓所がある円覚寺の山門
出典:Wikipedia

時宗の死因は明確になっていませんが、一説には結核や心臓病、あるいは元寇への対応による過労死とも言われています。

弘安7年(1284年)の4月4日に出家し、同じ日に帰らぬ人となりました。34歳でした。一説には自分の死を悟っての出家だったとも言われています。

北条時宗の功績

功績1「元寇を撃破し日本の国難を救った」

モンゴル軍と戦う日本軍を描いたもの
出典:Wikipedia

北条時宗は「文永の役(ぶんえいのえき)」と「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ばれる2度のモンゴル軍襲来を退け、日本史上でも最大級の国難を救いました。

元寇が起こった時のモンゴル帝国の皇帝は「フビライ・ハーン」。初代皇帝チンギス・ハーンによって樹立されたモンゴル帝国は、フビライの時代に最大の領土を築きました。その広大さはユーラシア大陸の大部分、地球全体で見ると世界の大陸の4分の1を支配する大帝国になっていたのです。

上記の広大な領土の一部(現在の中国や朝鮮半島、モンゴルのあたり)が「元(げん)」と呼ばれる王朝でした。つまり世界の多くを支配する強大な国家が、アジアの東端のある島国 日本に攻め込んできたのです。

フビライ・ハーンの頃のモンゴル帝国の版図
出典:Wikipedia

以上のような国難の時に、日本の政治のトップにいたのが北条時宗でした。時宗は日本の独立を守るべく徹底抗戦の構えを見せ、日本が一丸となって戦うための政策を行っていきます。結果、日本は2度の元寇を見事に退けたのです。

功績2「日本を守るため国内の裏切り者も許さなかった」

元軍が使用した炸裂弾「てつはう」
出典:Wikipedia

北条時宗は、「モンゴル軍に勝つには日本が一枚岩になる必要がある」と考え、国内の反乱分子には極めて厳しい処罰を下しました。

時宗が執権になった事実に不満を持っていた兄の北条時輔(ときすけ)を始め、時宗の政治に反発する北条一族を処刑。外敵と戦う前に、内部の敵を滅ぼし元寇へ備えたのです。以上の粛清事件を「二月騒動(にがつそうどう)」と呼びます。二月騒動の結果、裏切り者はいなくなり、日本は時宗を中心として元寇に対する準備を整えられる環境になったのです。

功績3「元寇に対して徹底した防御態勢を整えた 」

モンゴル軍を追撃する日本軍
出典:Wikipedia

時宗はモンゴル軍が日本に上陸しないよう防塁(敵の侵入を防ぐ石垣のようなもの)を築いたり、元からの使者を厳しく処断したりと、徹底した防御体制を敷いていました。

1度目の文永の役ではなんとか勝利したものの、モンゴル軍の九州上陸を許しています。その反省から、博多湾沿岸に石を積み上げ、約20kmにも及ぶ防塁を築き次の襲来に備えました。結果、2度目の弘安の役では防塁に阻まれ上陸できないモンゴル軍に、日本軍が艦隊決戦を挑み見事に勝利をおさめました。上記の防塁は「元寇防塁」と呼ばれ、国の史跡に指定されています。

復元された元寇防塁
出典:福岡市の文化財

また、1度目の文永の役の後も、フビライ・ハーンは日本に降伏を促す使者を絶えず送ってきました。しかし時宗は屈せず、やってきた使者を全員処刑し、徹底抗戦の意思を示します。使者の処断には敵へ情報が盛れるのを防ぐ意味があるため、モンゴル軍の諜報活動も防げたのです。

北条時宗と関わりの深い人物

北条政村

モンゴル軍の船に乗り込んで戦う日本軍
出典:Wikipedia

鎌倉幕府の7代執権。時宗の父 時頼の大叔父にあたり、まだ13歳だった時宗の代理で執権になった人物です。代理とは言え名君として知られ、18歳の時宗に執権職を譲った後も行動をともにして、二月騒動や元寇への備えなどでも活躍しています。

フビライ・ハーン

モンゴル帝国5代皇帝 フビライ・ハーン
出典:Wikipedia

5代目のモンゴル帝国皇帝で、元王朝を樹立した元の初代皇帝。モンゴル帝国の勢力が最も広かった時期の皇帝です。日本を支配下に組み込むため2度に渡り軍隊を差し向けましたが、北条時宗や九州の武士団の活躍により敗北しました。

亀山上皇

亀山上皇の肖像画
出典:Wikipedia

日本の第90代天皇(元寇の時は上皇)。元寇への対応にあたり、時宗は朝廷から外交権を預かり、亀山上皇からも絶大な信頼を得ていたと言われています。そして元寇が起こった際の亀山上皇は、「自分はどうなってもいいから、どうか日本の国と民を守ってほしい」と伊勢神宮で懸命に祈りを捧げていたのです。

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