「北条時宗は何をした人なの?」
「元寇にはどうやって勝ったの?」
「死因はなんだったの?」
この記事をご覧のあなたはそんな疑問を持っていませんか?北条時宗は鎌倉幕府の8代執権で、2度の元寇(げんこう)を退けた人物です。元寇とはモンゴル帝国が日本を征服するために攻め込んできた大事件。強大なモンゴル帝国に対抗するため、時宗は徹底した政治や国防を行い、日本を勝利に導きました。
この記事では、そんな北条時宗の活躍、元寇への対策や勝因、若くして亡くなってしまった時宗の死因などをわかりやすくご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
北条時宗とはどんな人物か
名前 | 北条時宗 |
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役職 | 鎌倉幕府8代執権 |
誕生日 | 建長3年(1251年)5月15日 |
没日 | 弘安7年(1284年)4月4日 |
生地 | 相模国鎌倉の安達氏邸宅(甘縄邸) |
没地 | 鎌倉某所 |
配偶者 | 堀内殿(覚山尼) |
埋葬場所 | 神奈川県鎌倉市円覚寺 |
北条時宗の生涯をハイライト
北条時宗は鎌倉時代の人物で、日本の政治を行う執権(しっけん)の家に生まれました。18歳の時には8代目の執権となり、日本の政治を任されます。そして時宗が執権だった時期に、日本はモンゴル帝国に2度攻め込まれました。しかし、時宗は徹底した政策でモンゴル帝国への備えを実施。時宗を中心とした日本は一丸となってモンゴル帝国と戦い、見事に勝利をおさめたのです。
モンゴル帝国の襲来を2度に渡り退けた時宗でしたが、約3年後に34歳の若さでこの世を去りました。病に侵されていたとも、過労が原因とも言われています。まさに、モンゴル帝国から日本を守るために生まれて来たかのような英雄でした。
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若くして元服、結婚、そして8代執権となる
北条時宗は、元服、結婚、執権になった年齢が、当時としても異様に早い人物でした。
鎌倉幕府5代執権 北条時頼の次男として建長3年(1251年)に生まれ、正嘉元年(1257年)に7歳で元服します。元服とは現代風に捉えると「7歳で成人式を迎えた」ような感覚です。当時の元服は10代の前半~半ばくらいに行うのが普通なので、時宗の元服がいかに早かったかがわかります。そして弘長3年(1263年)に鎌倉幕府の有力家臣 安達泰盛の妹と11歳で結婚しました。
文永5年(1268年)には18歳で8代執権に就任します。「執権」を現代の感覚で例えるなら、総理大臣のようなもの。つまり「18歳の総理大臣の誕生」です。そして、執権に就任するやいなや、時宗は元寇への対応を強いられていきます。
2度の元寇を撃破
北条時宗は「文永の役(ぶんえいのえき)」と「弘安の役(こうあんのえき)」と呼ばれる2度の元寇から日本を守るための政治を行い、見事に元を退けました。
「元寇(げんこう)」とは、世界の陸地25%を支配したモンゴル帝国の一部である「元(げん)王朝」が日本に攻め込んできた事件です。モンゴル軍は手始めに日本の対馬や壱岐を遅い、島民は皆殺しにされました。壱岐・対馬は凄まじい惨状だったと伝わっています。この時のモンゴル軍には、モンゴル帝国の兵だけでなく支配下にあった高麗(こうらい/現在の韓国・朝鮮)の兵もたくさん含まれていました。
しかし、時宗の政策で一丸となった日本軍の抵抗は凄まじく、1度目の文永の役では九州本土に上陸を許したものの見事に追い返して勝利、2度目の弘安の役では満足に上陸すら許さずモンゴル軍を撃破したのでした。
若くして亡くなった時宗の死因
時宗の死因は明確になっていませんが、一説には結核や心臓病、あるいは元寇への対応による過労死とも言われています。
弘安7年(1284年)の4月4日に出家し、同じ日に帰らぬ人となりました。34歳でした。一説には自分の死を悟っての出家だったとも言われています。