「人豚って何?」
「なぜ人豚が生まれたの?」
「どんなふうに人豚を作るの?」
人豚という言葉を聞いたときに、このように不思議に思った人がいるかもしれません。人豚はかつて中国で行われた刑罰の1つで、それを見る人々に恐怖と嫌悪を感じさせました。
今回は人豚が誕生した理由だけでなく、誕生した時代と場所、そして誕生にかかわった人物や現代の私たちへの影響なども詳しく解説していきます。
興味本位で語られることが多い人豚ですが、真実を知ると、人豚を生み出してしまった人間の心について真面目に考えるきっかけになるはずです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
人豚とは何か
人豚は、生きたまま手足を切断された人間のことです。生きたまま手足を切断するのは、処罰のためでした。すぐに亡くなる死刑と違い、人豚にされた人は、数日間生きていたと言います。
現在のように麻酔があるわけではないので、耐え難い痛みの中で生きなければならなかった人豚はある意味、死刑よりも重い刑だったと言えます。
また、人豚という言葉には蔑みの気持ちが込められています。人豚は肉体だけでなく、精神まで痛めつける過酷な刑だったのです。
人豚はいつどこで誕生したのか
人豚が誕生したのは、今から2200年ほど前の中国です。その頃の中国は、漢という名前の国で、初代皇帝の劉邦が亡くなり、息子の恵帝が即位をした頃でした。
劉邦の妻であり、恵帝の母であった呂雉という女性が人豚を生み出した張本人です。このような振る舞いのために、呂雉は唐の武則天、清の西太后とともに中国三大悪女と呼ばれることになりました。
呂雉は初代の皇后でしたから、とても恵まれた立場だったと思われますが、一体なぜ人豚などというものを生み出したのでしょうか。
それは、劉邦の跡継ぎを決めるときに、呂雉が大きな屈辱を感じたことと関係しています。
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呂雉が人豚をした理由とは
呂雉が人豚を誕生させた理由は、初代の皇后である自分に男児が生まれたのをわかっていながら、側室の1人が自分の息子を跡継ぎにして欲しいと、劉邦に申し出たことです。
その息子は若いときの劉邦によく似た活発な青年でした。劉邦もこの話に乗り気になり、一時は恵帝の皇太子としての立場が危うくなるほどでした。
皇帝である劉邦に側室がいるのは、当時としては特別なことではありませんでしたが、自分と恵帝をないがしろにする振る舞いに呂雉は我慢ができなかったのでしょう。
劉邦が亡くなり、無事に恵帝が即位してから、呂雉はこの側室を人豚にしたのです。
どんな人が人豚にされたのか
人豚にされた側室の名前は戚夫人と言い、人豚にされた後、紀元前194年頃に亡くなりました。舞が得意で、劉邦の碁の相手も務めた戚夫人は劉邦が戦に向かうときも常に同行しました。
劉邦にとってはなくてはならない相手となったようで、寵愛を一身に受けたと言われています。これが影響して、戚夫人が生んだ息子・劉如意も皇太子の有力候補となったのです。
一時は劉邦も劉如意を皇太子にすることに乗り気になりましたが、古くからの重臣たちがみな反対したこと、そして劉邦が招けなかった著名な学者たちを恵帝が招いて見せたことで、考えを改めました。
恵帝の皇太子としての地位は保たれましたが、呂雉の心には恨みの気持が残り、人豚が誕生することとなりました。
更に恐ろしい人豚を行なった「武則天」とは
呂雉よりも800年ほど後の中国に生きた武則天も人豚を作りました。彼女は中国で唯一の女帝となった人物ですが、自らが皇后になるために我が子を自分で殺し、罪を王皇后(唐の三代皇帝の皇后)になすりつけました。
そして無事に皇后になると、王皇后とライバルだった側室を百叩きの刑に処した上、手足を切断したのです。さらに手足を切断した女性たちを酒壺の中に放り込んだそうです。
呂雉が人豚を作ったのは、嫉妬などもあったでしょうが、自分の息子の立場を守るためでした。しかし、武則天は自分が皇后になるために、我が子を手に掛けました。我が子は亡くなっているのですから、武則天は誰にも疑われずに済んだでしょう。呂雉の一枚上手をいっていたのです。
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