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木曽義仲(源義仲)とはどんな人?生涯・年表まとめ【彼の最期や妻、子孫も紹介】

木曽義仲にまつわる逸話

逸話1「松尾芭蕉や芥川龍之介が最も愛した武将だった」

義仲寺にある松尾芭蕉の墓
出典:Wikipedia

木曽義仲は松尾芭蕉芥川龍之介が愛した武将と言われています。

彼らは木曽義仲の生き様に惚れていたと言われており、松尾芭蕉は「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」など義仲をのことを思って詠んだ俳句がありました。さらに松尾芭蕉は遺言において、義仲のとなりに埋葬して欲しいと願い、実際に義仲の眠る義仲寺に松尾芭蕉の墓があります。

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また、芥川龍之介は木曽義仲の一生を「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌(さてつ:つまずくこと、物事がうまくいかないこと)の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」と評し、木曽義仲論という論文を執筆するほど木曽義仲を愛していました。

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著名な文化人を心酔させるほど、木曽義仲の生き様は魅力的なものだったようです。

逸話2「大逆転の鍵となった火牛の計を企てた?」

火牛の計
出典:Wikipedia

平家の大軍を打ち破った俱利伽羅峠の戦いですが、その戦いの中で火牛の計という計略を用いたと言われています。その計略は火のついた松明を牛の角にくくりつけ、平家軍に向けて解き放つというものでした。

しかし、残念ながら火牛の計は後世の創作である可能性が高いと言われています。

火のついた松明をくくりつけられた牛が真っ直ぐ進むのか、そもそも火におびえて動かないのではないか、また、当時貴重な牛を使い捨て同然に作戦に用いるのかという疑問があり、現在では木曽義仲が火牛の計を用いたというのは否定的に捉えられています。

逸話3「命の恩人を討ち取ってしまい涙した…?」

命の恩人である斎藤実盛の像
出典:Wikipedia

俱利伽羅峠の戦いで勢いをつけた木曽義仲たちは、その後の戦いも順調に進め、平家軍は総崩れで撤退していました。そこで平家軍の追撃に移る木曽義仲でしたが、1人の武将が殿を務めており、その武将は味方が逃げ惑う中でも一歩も引かず奮戦していました。

最後は義仲の部下である手塚光盛に討ち取られてしまいますが、戦いが終わり、その武将の首を検めていると、その武将が斎藤実盛であることが判明しました。

斎藤は義仲の父が殺され、義仲が命を狙われていたときに、木曽に逃げる手配をしてくれた命の恩人で、これを知った義仲は人目をはばからず涙したと言われています。

木曽義仲の年表

1154~1156年 – 0~2歳「木曽義仲誕生」

木曽義仲の生まれた大蔵館跡に建つ大蔵神社
出典:一般社団法人嵐山町観光協会

木曽義仲誕生

木曽義仲は武蔵国で源義賢の次男として生まれました。幼名は駒王丸で、母は遊女だったと言われています。

義仲は3人兄弟で兄の仲家、妹の菊宮姫がいました。

父を源頼朝の兄に殺される

木曽義仲が2歳のときに父の義賢は兄である義朝と対立し、義朝の子である義平の手によって殺されてしまいます。この義朝は源頼朝の父で義平は頼朝の兄でした。

父親を殺された義仲が将来、自身に復讐することを恐れた義平は義仲の殺害を命じます。しかし、父を慕っていた畠山重能と斎藤実盛らの手配で、信濃国木曽谷に落ち延びました。

義仲は木曽の豪族である中原兼遠の元で養育され、このことがきっかけで木曽の名を名乗ります。

1180年 – 27歳「平家打倒のため挙兵」

平家討伐を呼びかけた以仁王
出典:Wikipedia

平家の専横に嫌気がさした皇族の以仁王が全国に平家討伐を呼びかけます。その呼びかけに木曽義仲も応じ、信濃国で起きた市原合戦に源氏の救援として向かいました。

義仲が大軍を率いて駆けつけたことを知った平家側の笠原頼直は即座に撤退し、義仲はそのまま父の旧領がある上野国(現在の群馬県)に進軍します。しかし、2ヵ月ほどで信濃国へ引き返しました。

これは平家討伐に専念するため、源頼朝や足利氏との不要な衝突を避けるためであったと言われています。しかし残念ながら、発起人となった以仁王自身は討たれてしまいました。

彼の遺児である北陸宮は義仲の元へ逃げ込んだため、義仲は北陸宮を擁して、これからの平家との戦いに挑みます。

1183年5月 – 30歳「俱利伽羅峠の戦い」

江戸時代に描かれた俱利伽羅合戦図屏風
出典:いしかわ歴史遺産

木曽義仲は、北陸道を中心に勢力を広げていきました。これに危機感を持った平家は平清盛の孫である平維盛を大将に、10万の大軍を北陸道へ差し向けます。

平家の数の暴力に一時は義仲も撤退に追いやられますが、家臣の今井兼平の奇襲が功を奏して、俱利伽羅峠にまで戦線を押し戻すことに成功しました。そこで、義仲は日中の戦いを避け、樋口兼光の率いる軍を平家軍の後方にばれないように伏せます。

そして、平家軍が眠りについて油断しきったところで、義仲たちは襲い掛かり、退路が樋口兼光によって閉ざされていることを知った平家軍は逃げ惑いました。敵のいない方角へ逃げようとしたところそこは俱利伽羅峠の崖で、そのため将兵の多くが転落死し、平家軍は壊滅します。

同年7月「入京を果たす」

天皇の後継者争いに関与

入京

俱利伽羅峠の戦いをきっかけに勝者の天秤は大きく源氏に傾き、その後の戦いでも次々に平家を打ち破り、遂に木曽義仲は入京を果たします。そこで、褒賞として官位と朝日将軍の称号、京の治安維持を命じられました。

天皇の後継者争いに関与

平家が京から西国へ都落ちした際に安徳天皇を連れ去ったため、京に天皇が不在でした。そのため、新たな天皇を決める必要がありましたが、そこに木曽義仲が介入します。

義仲は今回の功績は以仁王あってのもので、以仁王の息子である北陸宮こそが次の天皇にふさわしいと推薦します。しかし、この提案は皇統に反するもので朝廷が受け入れることはありませんでした。

それどころか当時、天皇の後継に武士が口出しすること自体がタブーとされていたため、義仲の行動は皇族や貴族たちから嫌われることになります。義仲が宮中の文化や慣例に疎かったこともありますが、この一件から義仲と朝廷側の関係にひびが入り始めます。

同年9月「京都の治安維持に問題が発生」

飢饉で食糧不足に陥っていた

平家がいなくなったことにより、京の治安は悪化していました。そこに今回の英雄とも言える義仲が治安維持を命じられたことで、京の住人たちは期待していました。しかし、2年前から続く飢饉で京は食糧不足に陥っていたところへ義仲たち源氏の軍が駐留したため、より一層食糧事情が悪化します。

これにより、兵士たちの略奪行為なども多発し、急速に義仲から人心が離れていくことになりました。しかし、これは義仲の手腕が悪かったとは言い切れず、そもそも飢饉により絶対的に食糧が不足していたため、誰が治安維持を担当しても結果は変わらなかったとも言われています。

また、京にいたのは義仲直属の軍だけではなく、義仲の指揮下にない他の武将の軍もいたため、義仲が全軍をコントロールすることは不可能でした。

同年11月「後白河法皇との関係が破綻」

後白河法皇の肖像
出典:Wikipedia

後白河法皇との関係が破綻

朝廷との関係が悪いながらも、木曽義仲は再起を図る平家軍の討伐に向かいます。しかし、想定外の苦戦が続き、義仲の有力な家臣の矢田義清と海野幸広を失いました。

戦線が膠着状態になったところで、義仲の元へ驚きの報せが届きます。それは源頼朝の弟である義経が大将となり、大軍を率いて上洛するというものでした。

実は、義仲が平家討伐に西国に行っている間に、後白河法皇と義仲の関係がうまくいっていないことを知った頼朝は秘密裏に法皇に接近し、交渉していました。その結果、後白河法皇は頼朝に上洛を促していたのです。

これに驚いた義仲は少数の家臣を連れ、京へ戻り、後白河法皇に猛烈に抗議しますが、徒労に終わりました。義経の率いる鎌倉軍が近づくにつれ、木曽義仲は頼朝らと矛を交える覚悟を決めます。

法住寺合戦

合戦の舞台となった法住寺
出典:Wikipedia

後白河法皇は義経の軍が近々入京するという報告を聞き、自身の戦力増強のため、法皇の御所であった法住寺を武装化しました。法皇が有利になったと確信し、木曽義仲に最後通牒を突き付けます。

その内容は「今すぐ、平家の討伐に向かいなさい。頼朝と戦うなら朝廷は味方しない、これ以上京にいるなら謀反とみなす」という実質的には義仲の失脚を意味していました。そこで追い詰められた義仲は法皇のいる法住寺の襲撃を決心し、法住寺合戦が始まります。

法皇の軍勢も奮戦しますが、義仲の猛攻にはかなわず、大敗を喫しました。義仲は法皇を捕縛し、自身に都合のいい傀儡政権を樹立して、頼朝との戦い際して形式的には官軍の体を整えます。

1184年 – 31歳「頼朝ら鎌倉軍との戦いにより討死」

義仲寺にある木曽義仲の墓
出典:Wikipedia

後白河法皇を連れて北陸に逃げることも考えますが、義経らの軍勢が間近のところまで来ていたため、開戦を余儀なくされます。法皇の幽閉などこれまでの行いで人望を失っていた義仲の味方は少なく、宇治川の戦いで惨敗しました。

戦いに敗れた義仲は今井兼平など腹心と合流しますが、続く粟津の戦いにおいて顔に矢を射られて討死します。享年31歳、俱利伽羅峠の戦いでの華々しい活躍から一年足らずのことでした。

木曽義仲の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

木曽義仲

作者の溢れんばかりの木曽義仲愛が詰まった本です。歴史は常に勝者が作り上げ、頼朝に負けた義仲は残念ながら野蛮で礼儀知らずと評されることが多くありました。

しかし、決してそんなことはなかったと、義仲の後世における評価を覆そうとする作者の熱い想いが伝わってきます。

木曽義仲論

芥川龍之介が、愛した木曽義仲の生涯について熱く語ります。あまりの熱量に、芥川が義仲の生き様によほど惚れこんでいたことがうかがい知れる本でした。

木曽義仲を芥川龍之介がどのような目線で見ていたのか、あなたも確かめてみませんか?

源平武将伝 木曽義仲

木曽義仲の生涯を描いた漫画で非常に読みやすく、わかりやすい一冊です。彼がどのような生涯を送ったのか知りたいという方には特におすすめの作品です。

無念の最期を迎えた木曽義仲の活躍を、ぜひ漫画で読んでみてみませんか?

関連外部リンク

木曽義仲についてのまとめ

いかがでしたでしょうか?今回は木曽義仲について紹介しました。

義仲の華々しい活躍とは対照的なあまりに早く悲しい最期には涙が止まりません。彼ほど実際の活躍と後世の評価に差がある武将はいないのではないでしょうか?

彼の悪評の原因となったものは、飢饉や源頼朝の政治力など外的要因が大きかったように思えます。そんな不遇な義仲ですが、彼の愚直で情に厚い人柄と生き様に惚れてしまった松尾芭蕉らの気持ちは私もよくわかりました。

この記事を読んでくださった皆様が、木曽義仲の魅力について少しでも興味を持っていただければ幸いです。

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