木曽義仲にまつわる逸話
逸話1「松尾芭蕉や芥川龍之介が最も愛した武将だった」
木曽義仲は松尾芭蕉や芥川龍之介が愛した武将と言われています。
彼らは木曽義仲の生き様に惚れていたと言われており、松尾芭蕉は「義仲の 寝覚めの山か 月悲し」「木曽の情 雪や生えぬく 春の草」など義仲をのことを思って詠んだ俳句がありました。さらに松尾芭蕉は遺言において、義仲のとなりに埋葬して欲しいと願い、実際に義仲の眠る義仲寺に松尾芭蕉の墓があります。
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また、芥川龍之介は木曽義仲の一生を「彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌(さてつ:つまずくこと、物事がうまくいかないこと)の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は男らしき生涯也」と評し、木曽義仲論という論文を執筆するほど木曽義仲を愛していました。
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著名な文化人を心酔させるほど、木曽義仲の生き様は魅力的なものだったようです。
逸話2「大逆転の鍵となった火牛の計を企てた?」
平家の大軍を打ち破った俱利伽羅峠の戦いですが、その戦いの中で火牛の計という計略を用いたと言われています。その計略は火のついた松明を牛の角にくくりつけ、平家軍に向けて解き放つというものでした。
しかし、残念ながら火牛の計は後世の創作である可能性が高いと言われています。
火のついた松明をくくりつけられた牛が真っ直ぐ進むのか、そもそも火におびえて動かないのではないか、また、当時貴重な牛を使い捨て同然に作戦に用いるのかという疑問があり、現在では木曽義仲が火牛の計を用いたというのは否定的に捉えられています。
逸話3「命の恩人を討ち取ってしまい涙した…?」
俱利伽羅峠の戦いで勢いをつけた木曽義仲たちは、その後の戦いも順調に進め、平家軍は総崩れで撤退していました。そこで平家軍の追撃に移る木曽義仲でしたが、1人の武将が殿を務めており、その武将は味方が逃げ惑う中でも一歩も引かず奮戦していました。
最後は義仲の部下である手塚光盛に討ち取られてしまいますが、戦いが終わり、その武将の首を検めていると、その武将が斎藤実盛であることが判明しました。
斎藤は義仲の父が殺され、義仲が命を狙われていたときに、木曽に逃げる手配をしてくれた命の恩人で、これを知った義仲は人目をはばからず涙したと言われています。
木曽義仲の年表
1154~1156年 – 0~2歳「木曽義仲誕生」
木曽義仲誕生
木曽義仲は武蔵国で源義賢の次男として生まれました。幼名は駒王丸で、母は遊女だったと言われています。
義仲は3人兄弟で兄の仲家、妹の菊宮姫がいました。
父を源頼朝の兄に殺される
木曽義仲が2歳のときに父の義賢は兄である義朝と対立し、義朝の子である義平の手によって殺されてしまいます。この義朝は源頼朝の父で義平は頼朝の兄でした。
父親を殺された義仲が将来、自身に復讐することを恐れた義平は義仲の殺害を命じます。しかし、父を慕っていた畠山重能と斎藤実盛らの手配で、信濃国木曽谷に落ち延びました。
義仲は木曽の豪族である中原兼遠の元で養育され、このことがきっかけで木曽の名を名乗ります。
1180年 – 27歳「平家打倒のため挙兵」
平家の専横に嫌気がさした皇族の以仁王が全国に平家討伐を呼びかけます。その呼びかけに木曽義仲も応じ、信濃国で起きた市原合戦に源氏の救援として向かいました。
義仲が大軍を率いて駆けつけたことを知った平家側の笠原頼直は即座に撤退し、義仲はそのまま父の旧領がある上野国(現在の群馬県)に進軍します。しかし、2ヵ月ほどで信濃国へ引き返しました。
これは平家討伐に専念するため、源頼朝や足利氏との不要な衝突を避けるためであったと言われています。しかし残念ながら、発起人となった以仁王自身は討たれてしまいました。
彼の遺児である北陸宮は義仲の元へ逃げ込んだため、義仲は北陸宮を擁して、これからの平家との戦いに挑みます。