安政の大獄とは?原因や結果、主要な関係人物についてわかりやすく解説

「安政の大獄ってなに?」
「幕末に起きた事件だというくらいは知ってるけどどんな内容かわからない」
「蛮社の獄とかとは何が違うの?」

このように思われる方も多いのではないでしょうか。安政の大獄とは1858年(安政5年)から1859年(安政6年)にかけて起きた江戸幕府による反体制派への弾圧事件です。当時流行っていた尊王攘夷運動への弾圧というだけではなく将軍の後継者問題もからんでおり、実態はやや複雑です。

桜田門外の変
出典:Wikipedia

またこの安政の大獄は有名な桜田門外の変と密接に関係しています。このように複雑でとっつきにくい印象がある安政の大獄ですが、この事件がわかると幕末の時代の変化がとても理解しやすくなります。

この記事ではそういった複雑な内容をわかりやすい形で解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

安政の大獄とは?

名称安政の大獄
年月1858年(安政5年)
~1859年(安政6年)
弾圧者江戸幕府(井伊直弼)
受刑者100人以上
死者
(刑死者・獄死者)
14人
結果桜田門外の変の発生
江戸幕府崩壊の加速

安政の大獄について簡単に解説

安政の大獄を指揮した大老・井伊直弼
出典:Wikipedia

安政の大獄は、1858年から1859年にかけて行われた江戸幕府による反体制派に対する弾圧です。単に尊王攘夷派に対する弾圧というだけではなく、将軍の後継者争いもからんでおり、一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を次期将軍に推す一橋派と呼ばれるグループも弾圧されています。

この弾圧を主に指揮したのは当時の大老だった井伊直弼(いいなおすけ)です。直弼が非常に厳しい弾圧を行ったためその反発も激しく、1860年に井伊直弼は桜田門外の変で暗殺されます。この暗殺により安政の大獄も終りを迎えるのです。

安政の大獄が起きた原因

日米修好通商条約が締結された米海軍のポーハタン号
出典:Wikipedia

安政の大獄が起きた主な原因は将軍継嗣問題による幕府内の対立と朝廷の許可無く日米修好通商条約を調印したことです。

将軍継嗣問題とは13代将軍家定の跡継ぎを誰にするかで、一橋慶喜を推す一橋派と徳川慶福を推す南紀派とで幕府内が真っ二つになったものです。井伊直弼は南紀派でしたから、安政の大獄で一橋派の多くを処罰しました。

また当時の日本は外国への開国問題で揺れていました。開国を主張する開国派と外国を追い払うべきだという攘夷派の間で激しく対立が続いていました。

そんな中、アメリカは日本に対して日米修好通商条約の締結を強く求めてきます。朝廷から許可を得られなかった幕府は、やむなく朝廷の許可無く日米修好通商条約に調印します。

このことで攘夷派や一橋派の人々が一斉に反発しますが、逆に井伊直弼はこれらを徹底的に弾圧していきます。これが安政の大獄の始まりです。

誰が処刑されたのか

安政の大獄で切腹した安島帯刀
出典:Wikipedia

安政の大獄による死者は14人ですが、牢獄で死んでしまった獄死者を除くと8人です。この中には橋本左内や吉田松陰といった有名な志士も含まれています。

また水戸藩家老の安島帯刀(あじまたてわき)など家老クラスの人物も死に追いやられています。このように水戸藩への弾圧はとりわけ厳しく、井伊直弼が桜田門外の変で暗殺される原因になってしまうのです。

  • 安島帯刀:水戸藩家老、切腹
  • 鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん):水戸藩京都留守居役、斬首
  • 鵜飼幸吉(うがいこうきち):水戸藩京都留守居役助役、斬首
  • 茅根伊代之介(ちのねいよのすけ):水戸藩奥右筆、斬首
  • 梅田雲浜(うめだうんぴん):儒学者、斬首
  • 飯泉喜内(いいいずみきない):三条家家来、斬首
  • 頼三樹三郎(らいみきさぶろう):儒学者、斬首
  • 橋本左内(はしもとさない):福井藩士、斬首
  • 吉田松陰(よしだしょういん):長州藩士、斬首
  • 日下部伊三治(くさかべいそうじ):薩摩藩士、獄死
  • 藤井直弼(ふじいなおすけ):西園寺家家臣、獄死
  • 信海(しんかい):僧侶、獄死
  • 近藤正慎(こんどうしょうしん):僧侶、獄死
  • 中井数馬(なかいかずま):与力、獄死

どのような弾圧が行われたか

戊午の密勅を出した孝明天皇
出典:Wikipedia

安政の大獄で最初に行われたのは、朝廷の許可無く日米修好通商条約に調印した井伊直弼をとがめるため不時登城をした、前水戸藩主の徳川斉昭(とくがわなりあき)らに対する謹慎や蟄居処分です。このとき処罰されたのは殿様クラスですから切腹や死罪のような重い刑罰にはなりませんでした。

しかしその後、朝廷から水戸藩・長州藩に対して戊午の密勅(ぼごのみっちょく)と呼ばれる勅書が出されたことが、安政の大獄の本格化へとつながりました。なぜなら朝廷から幕府を通さず直接藩へ勅書が出されるということは、幕府がないがしろにされる行為で許されない行為だったからです。

このため戊午の密勅に関わったと疑われる人々を中心に、たくさんの人が処罰されていくことになります。先ほども言ったように死刑になったのは8人ですが、拷問や劣悪な牢の環境のため6人も獄死しています。いかにそのころの取調べが厳しかったのかが想像できます。

蛮社の獄との違い

蛮社の獄で処罰された渡辺崋山
出典:Wikipedia

蛮社の獄とは1839年に渡辺崋山や高野長英がモリソン号事件と事件に対する幕府の対応を批判したことで処罰されたことをいいます。モリソン号事件とは遭難漂流して外国船に助けられた日本人を、日本へ送り帰そうとしたモリソン号に対して幕府が砲撃したり追い返した事件です。

安政の大獄が起きたのは1858年から1859年です。蛮社の獄の約20年後の話です。

幕府を批判した人が弾圧されたという点で共通点はありますが、安政の大獄は100人以上が弾圧された大規模なものだったのに対して、蛮社の獄で処分されたのは約10人で死刑になった人もいないなど両者はかなり異なります。

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