安政の大獄とは?原因や結果、主要な関係人物についてわかりやすく解説

安政の大獄の経過・詳細

安政の大獄が起きるまで

外国船の来航

アヘン戦争
出典:Wikipedia

江戸時代後期、それまで鎖国していた日本へ次々と外国船が来航するようになります。これは産業革命で工業製品を大量に生産するようになった欧米諸国が、新たな市場を求めてアジアへ進出してきたためです。

それは単なる市場拡大というだけではなく、植民地獲得ということでもありました。日本の隣国、清はアヘン戦争に敗れイギリスに香港を奪われています。日本の危機感も日々増していくのでした。

そして日本へもアメリカからペリー率いる黒船が来航。1853年(嘉永6年)にはアメリカとの間で日米和親条約が結ばれます。この条約は下田及び函館を開港し燃料や食料の補給ができるというもので、貿易などは許可されていない限定的なものでした。

一橋派と南紀派の対立

徳川家定
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ちょうどそのころ、江戸幕府内では将軍継嗣問題が起こっていました。これは13代将軍家定が病弱で子もいないため、早急に跡継ぎを決めなくてはならなくなったというものです。

その候補者は二人いました。一人は徳川最後の将軍として知られる一橋家の当主、一橋慶喜です。聡明な人物として親藩や外様大名などから支持を受けており、その支持層を一橋派と呼んでいました。

一橋派の親藩や外様大名はそれまで幕政からは遠ざけられていた人々でした。これらの人々が政治に参加できるようになったのは日米和親条約が結ばれた前後に、当時の老中・阿部正弘(あべまさひろ)がそれまでの譜代大名だけではなく、親藩や外様大名からも幅広く意見を聞くようになったからです。

しかしそれまで政治を牛耳っていた譜代大名や大奥も黙ってはいません。彼らは紀州藩主の徳川慶福(とくがわよしとみ・後の14代将軍徳川家茂)を次期将軍に推薦しました。

彼は一橋慶喜のような聡明さは持ち合わせていませんでしたが、家定からの血筋が慶喜よりも近いということが強みでした。彼らのことは南紀派と呼ばれていました。この一橋派と南紀派の対立が、安政の大獄にも影響を及ぼすことになるのです。

日米修好通商条約

タウンゼント・ハリス
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さて、日米和親条約で開港された下田にやってきたアメリカ総領事のタウンゼント・ハリスは、日本に対して日米修好通商条約の締結を迫ってきました。日本にさらなる開国と貿易を認めさせようというねらいです。

ハリスの背後には強大なアメリカの軍事力が控えていますから、要求を拒否し続けることは不可能です。幕府は諸大名などとも相談をして朝廷からの勅許(ちょっきょ、朝廷からの許可)を得るべきだということになりました。

それまで幕府の政治に朝廷の許可を得るなどということはありませんでしたから、これは大きな方針の転換でした。老中の堀田正睦(ほったまさよし)が上洛して朝廷から勅許を得ようとします。

しかし孝明天皇はもともと攘夷論者である上に尊王攘夷派などの工作もあり、とうとう勅許を得ることができませんでした。こうした難局を打開するため井伊直弼が大老に就任することになります。

井伊直弼の大老就任

井伊直弼
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大老に就任した井伊直弼は勅許がない状態で日米修好通商条約を結びます。井伊直弼自身は基本的に勅許を得てから条約を結ぼうとしていましたが、アメリカやほかの幕閣から圧力に負けてやむを得ず・・・という側面があったようです。

なぜなら当時の幕閣には「日本が植民地支配されることだけは絶対に避ける」という認識がありました。植民地支配を避けるためなら勅許がない条約調印も仕方ないという考えだったのです。

またアメリカの代表ハリスもこのあたりが実に狡猾で、早くしないとイギリスやフランスが日本に攻めてくるからアメリカと条約を結んでイギリスやフランスに備えるべき、と言葉巧みに日本へ圧力をかけました。

こうして日米修好通商条約は調印されるのですが、この無勅許の条約調印が安政の大獄の引き金になりました。

安政の大獄の経過

一橋派への謹慎処分

徳川家茂(徳川慶福)
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無勅許で条約調印した井伊直弼に対して徳川斉昭などの一橋派が反発。江戸城への不時登城に及びます。当時は殿様といえども江戸城へは決められた日以外は登城してはならない決まりだったのですが、それもかまわず登城して井伊直弼を問い詰めます。

直弼はその場をのらりくらりをかわした後、反撃に出ます。不時登城したことを「御政道を乱した」として斉昭たちを隠居や謹慎処分にします。これが安政の大獄の始まりとなりました。

またこのタイミングで13代将軍家定の後継を徳川慶福に指名、徳川家茂(とくがわいえもち)と名前を改めます。一橋派と南紀派の対立は南紀派の勝利に終わり、ここから一橋派は一気に追いやられていきます。安政の大獄は一橋派に対する弾圧でもあったのです。

島津斉彬の反発

島津斉彬
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無勅許調印に対して反発したのは江戸だけではありませんでした。一橋派であった薩摩藩の島津斉彬は藩兵を率いて京へ上り抗議する計画を立てます。

しかし斉彬は突然死亡します。コレラが死因とされていますがあまりのタイミングのよさに暗殺説もささやかれています。

斉彬の死によって薩摩藩は体制が大きく変わり、それまでの反幕府的な態度から幕府と協調するように変化します。このことは西郷隆盛が島流しになってしまう原因にもなってしまいます。

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