安政の大獄と桜田門外の変の違い・関係
大老・井伊直弼が暗殺された桜田門外の変は、安政の大獄が原因だと考えられます。
安政の大獄でもっとも弾圧を受けたのは水戸藩でした。前藩主の徳川斉昭が永蟄居(えいちつきょ)という死ぬまで続く謹慎、家老クラスの家臣数人が切腹や死罪というかなり厳しい処分を受け、幕府からは改易(かいえき・藩の取り潰し)すら示唆されています。
このような弾圧を受けた結果、水戸藩士の過激派は激しく反発します。その中の一派が1860年(安政7年)3月3日に江戸城へ登城中の井伊直弼一行を襲撃し暗殺しました。
安政の大獄に関わった主要人物
井伊直弼
彦根藩の第15代藩主です。第13代藩主井伊直中の十四男で本来藩主とは縁遠い存在でしたが、第14代藩主直亮の養嗣子が死去したため急きょ後継者に抜擢されました。
そのため17歳から32歳までは部屋住みという存在で、茶道や居合術など趣味に没頭しており、後世の苛烈なイメージからは想像し難い一面も持っていました。将軍継嗣問題で直弼は南紀派に属しており、このことが安政の大獄で一橋派を弾圧する原因ともなります。
大老に就任後は自身に権力を集中させ、日米修好通商条約や将軍継嗣問題といった難問を強引ともいえる形で解決させていきます。その手腕に反発する人々を安政の大獄で徹底的に弾圧したことで、桜田門外の変を引き起こし、ついには自らの命も失ってしまいました。
井伊直弼とはどんな人?生涯・年表まとめ【人物像や名言も紹介】
徳川斉昭
水戸藩9代目の藩主です。安政の大獄で永蟄居という藩主クラスではかなり重い処分を受けます。将軍継嗣問題では実子である一橋慶喜を推して一橋派を作り、井伊直弼ら南紀派と対立します。水戸学と呼ばれた尊皇攘夷思想を広め、明治維新の思想的原動力を築いた人物でもあります。
尊皇攘夷という立場からも井伊直弼とは激しく対立することとなります。日米修好通商条約を無勅許調印した井伊直弼をとがめるため、不時登城したところ、逆に不時登城をしたことが問題となり謹慎処分を受けました。
それに加えて戊午の密勅が水戸藩の陰謀だと断じた直弼から永蟄居というさらに重い処分を受け、そのまま世を去ることになります。
島津斉彬(しまづなりあきら)
薩摩藩11代藩主です。彼も一橋派で、南紀派の井伊直弼とは真っ向から対立する立場にありました。日米修好通商条約を無勅許調印した直弼に反発し、藩兵を率いて上洛し抗議活動を起こすことを企てましたが、その準備中に急死します。
死因は当時流行っていたコレラではないかと言われていますが、急死したタイミングのよさに暗殺説も未だに根強く残っています。
橋本左内
福井藩の藩士で、安政の大獄で死罪となります。10代のころは大阪の適塾で学び、福井藩の藩医となりましたが後に藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の側近を務めるようになります。
将軍継嗣問題では、一橋派の春嶽を助け一橋慶喜擁立の運動を展開します。しかし安政の大獄が始まると、春嶽は隠居謹慎となり自身も取調べを受けることになります。
取調べに対して「私心ではなく藩主の命に従った」と当時主流の朱子学に反するようなことを言ったのが井伊直弼の癇に障ったのか、遠島程度で済むはずのところを斬首という重い処分が下されてしまいました。
梅田雲浜(うめだうんぴん)
儒学者。元は小浜藩士でしたが藩主に建言したため藩から追い出されています。取調べ中に獄中で死亡。コレラにかかったとも、拷問の傷が悪化して死んだともいわれています。
雲浜は藩籍を剥奪された後、尊王攘夷運動の先鋒となって幕府を激しく批判します。このため安政の大獄ではまっさきに捕縛されました。
吉田松陰
長州藩士。「松下村塾」で高杉晋作や伊藤博文など多くの人々に影響を与えました。安政の大獄で死罪となります。
吉田松陰の事例は少し変わっていて、当初取調べを受けた理由は梅田雲浜の関係者だったということくらいでした。ですから死罪になるはずはなかったのですが、彼は自分で老中の間部詮勝(まなべあきかつ)を暗殺する計画を立てていたことを話してしまいます。
そのようなことを聞いた以上幕府としても死罪にするしかなく、松陰も刑死者の一人となってしまうのでした。
西郷隆盛
西郷隆盛も実は安政の大獄に関わっています。直接処罰されたわけではなく事情が少々複雑ですが、安政の大獄に翻弄されたのは事実です。
隆盛は当時京都で活動していましたが、梅田雲浜らが捕縛されるなど隆盛にも身の危険が迫ってきたため鹿児島へ帰ります。そして幕府の目から逃れるために、藩の命令で名前を菊池源吾と改めて奄美大島に隠れることになります。
潜伏生活は約2年に及んでおり実質島流しにあったようなものですから、西郷隆盛も安政の大獄による犠牲者の一人といえるかもしれません。